ギャラリー看板 gyarari−看板

採り方 最初の頁 拓本とは 拓乃会 綜芸舎 地図 リンク 拓本ギャラリー 最初の頁 拓本とは 拓本の採り方 拓乃会 綜芸舎 案内地図 関連リンク バー2 最初の頁 拓本? 拓本の採り方 拓乃会 綜芸舎 案内地図 ギャラリー

最初の頁 なあに 採り方 拓乃会 資料 リンク マップ 最初の頁 なーに 採り方 拓乃会 綜芸舎 リンク 夏秋作品 最初の頁 なーに 採り方 拓乃会 綜芸舎 案内 リンク 拓本ギャラリー

最初の頁 拓本とは 拓本の採り方 日本拓本研究会 拓本ギャラリー 白と黒の美の世界に魅せられた拓本家藪田夏秋の四五年にわたる拓本人生で採った千枚以上の拓本から名品を順次紹介。
拓本を表装した藪田夏秋作品は「掛軸と屏風」ホームページへ。 http://www.hyougu.com

This page introduces a masterpiece every month from 1000 or more sheets of Takuhon selected from the world of Takuhon created over a 40 year period by the Takuhon master, Kasyu Yabuta, These Takuhon capture the world of black and white beauty! Examples of Kasyu Yabuta's work are shown on the "Kakejiku and Byobu" pages including scrolls and panels.

(目次)23なまず拓本 22山部赤人歌碑拓本 21「コクリコ」与謝野晶子歌碑拓本 20魯孝王刻石「五鳳二年・・・」拓本 19酒井抱一の朝顔の碑 18大菩薩峠碑拓本 17梵字仏拓本 16新大仏寺獅子拓本 15仏足石拓本 14楓橋夜泊詩拓本 13石勘当 12近代俳句三匠碑 11繹山碑 10雲蜜峰の禹碑 9左馬  8漱石の文学碑 7西行 昆陽池歌碑 6額田王万葉歌碑 5高浜虚子句碑 4清水寺 岸駒の虎 3大雲寺梵鐘 2方広寺の鐘 1芭蕉碑 高野山

23 なまず拓本

奈良の鹿寄せが、笛を吹いても鹿があまり集まらなくなったとか。観客が増えすぎたからだそうです。
なぜ?それは「鹿男あをによし」というテレビドラマが流行っているからだとか。
もともとは万城目学の小説のドラマ化です。彼の作品は一作目から注目していたのでちょっとうれしくなりました。

さて物語は太古から日本の地底にはナマズがいて、また暴れだしたので、鎮めるため、卑弥呼の鏡(三角縁神獣鏡)を使うという話。

そのなまずを鎮めるため、江戸時代に、京都の大徳寺の隣、今宮神社の摂社の台石に彫られたのが、このナマズです。
京都ではこのナマズのおかげで地震があまり起こりません。

拓本はずいぶん前、採らしてもらいましたが、低い位置なので座り込んで取ったものです。

22 山部赤人歌碑拓本



滋賀県琵琶湖のほとり蒲生野にひっそりと建つ「山部神社」、その隣には「赤人寺」神にも仏にもなった宮廷歌人 山部宿禰赤人は柿本人麻呂とともに奈良時代に活躍しました。
この神社には赤人の有名な歌「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」の大きな歌碑があります。この歌は小倉百人一首でも有名ですね。
ここではもう一つ建つ小碑の拓本を載せます。
「春野能 春み礼摘迩と古し我そ 野をなつかし三 一夜寝に計留」(正八位 渡忠秋勤書)(万葉集巻8 1424)
ここでは内容は別にして文字について考えてみます。
まず万葉歌碑は原書体がないということです。そこで1184年につくられた元暦校本などから写し取るか、書家や有名人の書を用いる以外に方法はない。ここでは江戸時代の文人が書いています。
本来は万葉仮名で書くべきものを、それでは読めないだろうということで、60%が漢字仮名交じり文だそうです。
さて校本とつき合わせてみると、「春野能」は「春野迩」の間違い、久遠に残るとは思わないが、長年にわたって残っていくわけですから、書く人は心して書いてほしいものです。
(碑の高さ50p)(08.01.01)

さて、赤人の活躍した時代、聖武天皇の御代のお話は「なあに「夏秋独り言41」に載せます。


21 「コクリコ」与謝野晶子歌碑拓本


与謝野晶子が鉄幹を追いかけてパリに来たとき詠んだ歌 
「ああ皐月ふらんすの野は火の色す 君もコクリコ われもコクリコ」

この碑はいまパリ三越に建っているはずです。建碑したのは晶子をこよなく愛し、全国に27か所に晶子歌碑を建てた富村俊造の海外に建てた碑です。
その富村さんが今年3月100歳で亡くなられました。深く哀悼の意を表します。

30年来、碑をつくるたびに声をかけていただいて、採拓しました。このコクリコの碑もそうですが、多くはまだ石屋にある時に採ったものです。歌碑の採拓1号の名誉をいただいたこと、拓本家冥利に尽きます。

南座の前にある碑を採って、1枚は富村さんへ、1枚は南座に寄贈したら、その後数年南座から招待券をいただき、「こんな附録素敵です」と、富村さんに話したら、「わしいんとこ送ってきいひんなー」なんて、シンボルのベレー帽をとって頭をかかれたので、「富村さんはちゃんと切符買ってくれるお得意さんですもの」といって大笑いしました。このベレー帽はスイスアーミーのもんやと話しておられたことついこの前のことのように思い出されます。
あの世で晶子さんに会っておられるかしら。(2007.7.3)



20 魯孝王刻石「五鳳二年・・・」拓本

今から千年ほど前に、曲阜の霊光殿遺跡から発見されたこの石は、その後孔子廟堂に置かれました。その表面に刻まれた文字は「五鳳二年 魯丗四年 六月四日成」と刻まれています。五鳳二年は紀元前56年、二千年も昔の石です。「年」の字の縦が伸びているので長脚書法といわれます。
さて私は今から三十年近く前 1979年8月山東省曲阜を訪れました。文革後としては最初の日本人だったそうです。孔子廟の中に泊まって、漢代の碑を見ると共に、中国人の拓工(プロ)と技術交流をしました。
廟内の漢碑の撮影は禁じられていたのですが、交渉の結果 代表者1名のみ撮影が許可されました。一緒に行った11人のグループの一人あの榊獏山さんがシャッターを押しました。なおグループにはもう一人今や書壇の重鎮・成瀬映山さんもおられました。
この拓本は中国の拓工のものです。
その当時中国はとっても貧乏でした。でも帰り際に遠くまで送ってくれた曲阜の人たちの素朴でやさしい微笑みは忘れられません。今この地は世界文化遺産に指定されました。整備され奇麗になったでしょうが、もはやあの純朴さは消えたのではないでしょうか。
4月13日中国の温家宝首相が京都に来て、立命館大学を訪れました。ここには孔子学院が開設されています。孔子学院は中国文化(中華思想)を世界に広める世界戦略の拠点です。今や世界中に140校出来ているそうです。
孔子の生まれた土地を訪れたときから考えるとその発展にはびっくりします。それに引き替え日本はそういう戦略はあるのでしょうか。(2007.4.15)


19 酒井胞一の朝顔の碑

東京雑司ヶ谷に有名な鬼子母神があります。人の子を食らうといわれた鬼子母神、釈迦の導きで安産子育ての守り本尊となりましたが、ここ雑司ヶ谷の鬼子母神はやさしい菩薩の姿をしておられるとか。昔懐かしい都電にのってここを訪れると、江戸の下町が思い起こされてとっても素敵な場所です。
さてこの近くの「法明寺」にこの朝顔の画像碑が建っています。「舜塚」といわれるこの碑には「舜(あさがお)やくりから竜のやさすがた 富久」という句が彫られています。
富久は戸張喜惣次という刀剣の彫師で、朝顔の竹竿に巻き付く姿を、刀剣の柄に彫られる竜の姿に似ているところから詠まれたのでしょう。朝顔を観て歌ったのか、絵を見て歌ったのか。画家が句を見て絵を描いたのかわかりかねますが、絵描きが江戸後期一流の画家「酒井抱一」だったため、今日まで名碑として残っています。
酒井抱一は尾形光琳に私淑した画家で、私の名前でもある「夏秋草図」(正式には『風雨草花図』東博蔵、重要文化財)は 光琳の「風神雷神図」屏風の裏面に描くというパーフォマンスで、大好きな画家です。屏風は両面が使えるんだということを最初にわかった人ではないでしょうか。
さてこの碑の拓本は結構彫りが浅くって採りにくかった記憶があります。若いときに採っているので、いまならもっとうまくとれたのではないかと悔やまれます。
採拓はいつもうまくとれるとは限りません。技術もさりながら、その日の天候や、碑の大きさ、石の状態、碑のある場所など多くの不確定要素が入ります。同じ碑でも今日採ったように明日は採れません。名人が採っても、天候が悪ければ、別の日の採った初心者の拓本に負けるかもしれません。それがまた魅力があり、挑戦しがいがあります。(2006.8.10)













18 大菩薩峠の碑拓本

大衆文学の一大記念碑といわれる中里介山の大長編小説「大菩薩峠」は大正二年(1913)に始まり昭和十六年(1941)まで書き続けられましたが未完に終わりました。
主人公の机竜之介は盲目の虚無的な剣豪として描かれ後々までヒーローとして人気を博しました。
その竜之介が目を治すため訪れたのが信州上高地途中の白骨温泉でした。それを記念して白井恭二らによって昭和29年(1954)温泉入り口に日が建てられました。
一基二碑形式で上部の自然石には「小説大菩薩峠記念碑」と彫られ、下部の台石にはプレートがはめ込まれて
「上求菩提 下化衆生 介山居士題」と彫られています。
「上求菩提」は菩薩が自己のために菩提を求めること、「下化衆生」は菩薩が人々を教化済度することを意味します。介山の理想の言葉で、山と上下から峠を、そして大菩薩峠が生まれたといわれています。
採拓当時は強風で、湿拓は諦めて乾拓にしましたが、机竜之介のイメージが出たのではないでしょうか。
その後和歌山の竜神温泉に行った時、ここにも竜之介は来たとのこと。縁ですね。
(2006.5.20)







17 梵字仏拓本

梵字はサンスクリットともいわれ、古代インド文字です。紀元前にうまれ、仏教の隆盛した23世紀には今日みられるような形になりました。梵字とはインドの古代宗教の創造神梵天(ブラフマン)の文字で、仏教の文字として使われた。これが仏教の伝播の重要な担い手として中国、そして日本へと伝わったのです。ところがインドでは短期間ですたれ、中国でも唐代でしか使われなかった梵字が日本に仏教伝来とともに入ってくると日本人にとって非常に霊力のある荘厳な文字として受入れられ、二千年たつ今日でも僧侶の書く塔婆や墓石に生きています。梵字は世界の中でたった一つ日本でのみ残った文字なのです。
さてこの拓本は兵庫県加西市北条の五百羅漢の側にある石棺仏です。関東では梵字仏は緑泥片岩の板碑に彫られるます
が、関西では古代の石棺を利用したものもあります。内容は中央に阿弥陀如来
(キリーク)、右に観音菩薩()、左に勢
至菩薩
(サク)をおく阿弥陀三尊形式をとります。下に建治三年(一二七七)の銘があり、鎌倉中期の、梵字が装飾過剰に
なる前ののびのびした字体のものといえます。(2006.2.1)










16 新大仏寺獅子拓本

今年は戌年、犬の代わりに珠で遊んでいる獅子を載せました。中国の文化を吸収して花開いた日本の美術工芸も、石造美術に関しては見るべきものが少ないのは、我が国の風土から木と紙の文化となり、石の文化ではなかったせいでしょう。古代仏教伝播の当時は隋、唐からの渡来人の手になる素晴らしい石彫品が生まれましたが、後が続きませんでした。ところが鎌倉初期、大仏再建に際しては多くの宋の大工、金工、石工を呼び寄せ、当時の先端技術で造立されました。南大門のこま犬はそれらの石工の手になるものであります。そしてこの拓本の獅子も東大寺ゆかりの三重県新大仏寺の大仏台座に彫られたもので、デザインといい、彫刻技術といい卓越したものといえます。これらの作品をつくった人たち、またその子孫、一派を伊系の石工といい、あとあとまで優秀な技術の作品を残しています。工芸特に石造品の作者名は殆ど判らないが伊行末を頂点にする伊系の作品は各地に今も残っています。(2006.1.1)




15. 仏足石拓本

釈迦入減の後仏教は大いに隆盛し、釈迦を慕って各地に記念物が立てられました。しかし仏となった釈迦の姿を表現することは当時の人々の意ではなく、釈迦の代わりに菩提樹を当てたりしました。また釈迦が訪れた場所ではその足跡を描くことによって、釈迦の姿の代わりとしました。それが仏足石と言われるもので、そこには仏を証明する色々な模様が描かれています。日本にも天平時代に伝わったものが今日薬師寺に残っています。(この仏足石の傍らにある碑が仏足石歌碑でその拓本を夏拓秋装展Bで展示)。この拓本は京都の北の真教寺にある仏足石です。不思議なことに仏足石は天平以来殆ど作られず江戸時代になって突然復活しました。これにはいろいろ理由があるでしょうが、たぶん平安以降の仏教の様変わりによるのでしょう。観音信仰、阿弥陀信仰、密教の流行が釈迦の足を押し退けたといってよいでしょう。しかしどういった風の吹き回しか江戸時代に復活し、以後今日まで各地に多くの仏足石がたてられ、今も立てられています。
仏足石の採拓はとっても楽です。ほとんどが横になっており、おまけに小さいのでやりやすい対象物です。(2005.11.1)



14.楓橋夜泊詩拓本

中国で日本人にもっとも有名なお寺 寒山寺は502年創建、幾度も焼失、現在は清1900年の再建です。寺にあるこの碑もあまりにも有名で、中国のお土産の拓本といえば、この詩と寒山拾得画像碑の真っ黒にとった拓本で、烏(からす)の羽のように黒いところから烏金拓(うこんたく)と呼ばれています。拓本といえばこのように黒く採るのかなと思われ困ることがあります。蝉翅拓(せんしたく)という蝉の羽のように薄く採る採りかともあるのです。お土産の拓本は現在模刻から採られています。それが右の拓本です。30年前参詣したときは今ある拓本の元碑とここで紹介する原碑がガラスで覆われていましたが今はどうなのでしょうか。楓橋夜泊詩は唐代750年ごろの人、張継の詩で、碑は明代にたてられました。文徴明の書といわれほとんど風化してしまいました。それを採ったのが左の拓本です。「月落烏啼霜満天 江楓漁火対愁眠 姑蘇城外寒山寺 夜半鐘声至客船」。旧碑拓本を創作掛軸にして「夏秋展in京都」で展示しました。http://www.hyougu.com/gallery4.html(005.6.9)
なんと最近フイルムを整理していたらかって行った寒山寺が出てきました。旧碑と新碑を紹介します。(2005.7.1)



13.石勘当

この石勘当という文字を彫った碑や道標を見たことはないでしょうか。江戸時代には結構あちこちにあったみたいです。今日では中国から沖縄、西日本に残っています。T字道路の突き当たりに立ち、道の安全を守ったといわれ、道教の影響とも言われています。この拓本の石は碑でなく石灯籠で、加茂川にかかる勧進橋にたち、灯りと文字で安全を守ったものだったのでしょう。文字は幕末の三筆といわれる書家貫名菘翁の書といわれています。現在は京都市南区陶化小学校の校庭に移っています。(寸法140cm×41cm)
拓本は表装され、4月12日〜17日まで東京銀座鳩居堂で開催しました藪田夏秋の個展「夏拓秋装展B」で展示いたしました。(2005.5.5)


12.近代俳句三匠碑

昨年11月に行われました山口県防府市の山頭火句碑採拓会で会場の山頭火菩提寺「護国寺」門を入った場所にある碑。浅草寺には宗因、芭蕉、基角の三匠碑というものがありますが、ここでは、種田山頭火、河東碧梧桐、荻原井泉水の碑です。近代俳句三匠碑でしょうか。
「てふてふうらからおもてへ」 山頭火
「水鳥群るヽ石山の大津の烟」 碧梧桐
「はるさめの石のしつくする」 井泉水
碧梧桐と虚子は子規門下の双璧、伝統的な五七五調の虚子と対立。定型や季題にとらわれない自由律を提唱、荻原井泉水と行動を共にしました。ここに山頭火も加わっています。すべて直筆、碧梧桐は原寸、御影石(H50cm×W85cm)で、採拓後、和紙の柔らか味を出そうと思い、裏打しないで撮影しました。それぞれ句もいいですが、書も素晴らしく、特に碧梧桐の書は好きです。(2005.1.1)


11.繹山碑

先日中国で最大のヒット映画「英雄」を見ました。秦の始皇帝が皇帝になる前の時代、彼を狙う暗殺者の物語、なかなか良く出来た映画で、アクションとスケールが話題になりましたが、わたくし的には隠れたテーマである文字に興味が湧きました。紀元前紙が生まれる前の時代ですから、砂に文字を書いたり、布に書いたり、書庫には竹簡がうずたかく積まれていたりととっても面白い場面がありました。始皇帝はご存知のように焚書坑儒といって、書物、当然紙の本でなく竹簡を燃やし、儒教を弾圧したことで有名ですが、色々な文字が各地にあったのを統一(小篆)したことは特筆すべき業績です。造られた文字を国中に広げるにはどうしたか。始皇帝は小篆文字のぎっしり詰まった石碑を全国各地に立てて広めたのです。なんと素晴らしいアイデア、この後中国では現代にいたるまで石碑が無数に立つようになりました。
繹山碑はその最初で記念すべき碑でした。過去形にしたのは、唐代にこの名碑の拓本をもとめること多く、住民が難儀して燃やしてしまったのです。焚碑坑拓ですね。ではなぜこの拓本があるかというと、宋代の人が拓本をもとに新たに碑を立て、それから採られたのがこの拓本なのです。(03.10.10)


10.雲蜜峰の禹碑

中国湖南省衡山県衡山という山の南峰を雲蜜峰とか祝融峰とか句婁(くる)山と称され、山頂に古代神話の時代 夏の禹帝が黄河の治水に成功したことを称えた碑が立っていたといわれていました。のち790年ごろ唐の劉禹錫が詠んだ詩に「嘗聞祝融峰 上有神禹碑 古石瑯杆姿 秘文虎形」が、また唐の韓愈(800年ごろ)にも句婁山の詩があり、山頂に碑があり、動物を模ったような不思議な文字(科斗文字)が彫られていたが、誰も見たものがないと詠まれています。先年大阪の中国人の骨董商から手に入れたのがこの碑?の拓本です。裏に雲蜜峰碑と書かれた短冊が貼られていました。なにぶん買ったときはどういう由来の拓本かわからず、ただ石の模様と字形の面白さで手に入れたものです。三年前、フインランドで拓本を展示することになり、見栄えのする絵のような文字のこの拓本を表装し展示しました。そのご銀座鳩居堂での個展でも展示したところ何人かの書家から興味を示されました。この拓本が原碑からとられたものか、模刻か定かでありません。現在も碑が存在するのかどうかもわかりません。でも拓本そのものは相当昔に採られたものと思われます。夏の禹王は紀元前2000年前の王です。今から4000年前ですよ。中国雄大なることよ。青字は元字が標準漢字にないので代用しました。(2003.3.3)

9.左馬

拓本・左馬 2002年・平成14年もすでにふた月を過ぎ、春遠おからじの今日この頃です。さて今年は午年でした。でしたというのは今年賀状欠礼したため、干支に無関心で、今頃気がついたのです。そこで馬の拓本を紹介します。中国には馬を彫刻した画像石は結構ありますが、日本では案外少ないようです。その中で最高傑作はこの左馬ではないでしょうか。平安時代の作と言い伝えられていますが、東大寺南大門の狛犬や三重県新大仏寺台座の彫刻をした宋人石工の作品ではないかと思われます。馬を愛した中国人の手で流動感あふれる姿に彫られています。さてこの画像石は京都南部に広がるハイテク都市の手前にある井手の山奥にあります。かっては俊成や貫之、小町の歌に読まれた井手の玉水という、清らかな水が湧き出る土地でありました。山道の谷川に人目も引かず転がっています。たぶん山道の山側にたててあったものが、いつの頃か洪水で転落し、おまけにうつむきになってしまったのです。少し幸いなことに、別の石の上にのっているので、下の土を掘り、体を中に入れて、懐中電灯で照らしながら採った拓本です。約1bほどあり、下向きですから、相当の労力と熟練が必要でした。勿論若き日の採拓でした。転落する前左馬と言われ、近在の水商売の方の信仰を集めたそうです。隠れた馬も拓本でよみがえり、今年も宜しく。(2002.3.1)

8.漱石の文学碑

拓本・漱石碑 私の店 画廊 拓は東京神田神保町の古本屋街の真ん中にあります。隣が駿河台下で、角に三省堂書店があります。ここを東に坂を上がると明治大学を過ぎてお茶の水に出ます。さてその駿河台下の交差点の裏道を少し入ったところに小学校があります。かって錦華小学校と呼ばれ、統合でお茶の水小学校と名前を変えたところです。ここの校庭の外にこの碑が建っています。神田は本の街としてつとに有名ですが、記念とする文学碑がなにもない街です。貴重な碑といえます。さて夏目漱石は明治元年(1867)新宿牛込に江戸奉行名主の子として生まれたが生後まもなく里子に出され、二歳の時には四谷の名主の養子になっている。しかし10歳の時には生家に戻っている。この間小学校を三度変わっている。錦華小学校に通ったのが生家に戻る前か後かはわからないが、小さな物心つかない子供にとっては波瀾万丈の生い立ちである。碑文は漱石の最初の小説「吾輩は猫である」の書き出しからとられている。10年ほど前春爛漫の時、散り落ちるサクラの花びらが碑に着いたのを一緒にとった記念すべき拓本。惜しむらくは見物するギャラリーが多く急いで片づけて折り目に墨が着いてしまったこと。なお目の前に、私の著作を数多く出版してくれている日貿出版社があります。(2001.4.20)

7.西行法師 昆陽池の歌碑

拓本・西行歌碑 平安時代から鎌倉時代、貴族社会から武士社会への転換にあって北面武士(今の親衛隊)から一介の僧に転身し、動乱の中、旅から旅へ放浪しながら歌詠みとしていきぬいた、西行の生き様は後の芭蕉を含めて多くの人に共感を与えた。自然を平易に描写した歌は親しみやすく今も愛されている歌人である。さてこの碑は兵庫県伊丹市の昆陽池の岸辺に建つ。昆陽池は古代からここにある大きな池で古来多くの人が歌を詠んでいる。渡り鳥が飛来する池の周りにはそういった歌碑がいくつか点在する。近年は神戸大地震の慰霊に使われて記憶に新しい。碑の文字は画家、詩人、随筆家、書家でもある中川一政である。江戸時代だったら文人と呼ばれたであろう一政は形にとらわれない画や書、文をかき、西行に通じるものを感じる。特にこの碑の書体は西行の歌とよく合っており、私の大好きな碑の一つである。(拓本80×40p)2001.3.9

6.額田王万葉歌碑

拓本・額田王歌碑 額田王を巡っての中兄大皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の争いは天智の勝利となり、一件落着をみたかに思われた古代ロマンの世界も、近江の蒲生野のピクニックで雲行きが怪しくなる。時は668年5月5日朝まだはやきもやの中で、紫草が一面に生茂る中を歩く今や天皇の女・額田王、そこに現われたかっての恋人・大海人皇子 「もう私は人の妻、近寄らないで」と歌い、「いや、人の妻であろうとなかろうとおまえが好きだ」と歌う。これを不倫、不貞の歌と切り捨てる人もいれば、おおらかな古代歌謡のロマンと感動する人もいる。しかし三年後天智天皇は亡くなり、壬申の乱の後大海人皇子は天武天皇となる。額田王を軸にどのように歴史は回ったのか。つきぬ興味がある。
      天皇遊猟蒲生野時額田王歌
  茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
      皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇謚曰天武天皇 
  紫草のにほへる妹をにくくあらば人嬬ゆえに吾れ恋ひめやも

滋賀県八日市市船岡山山上の巨岩に150×100センチの御影石を嵌め込んだこの碑の拓本は若き日焼け付く真夏の中、梯子をそばの松にくくりつけて採った物。見る人によってはあまりうまくない拓本と思われるが、採拓者にとっては見るたびにそのときの熱い風が心をよぎる拓本である。(ついでに我が高校は京都市船岡山麓の紫野高校、額田王のような素敵な同級生はいたかなあ・・・関係ないか) 2001.2.1

5.高浜虚子の句碑

拓本・虚子句碑 近代俳句の基を築いた子規には二人の弟子、虚子と河東碧梧桐がいた。師、弟子とも愛媛県松山の生まれで、近代俳句の基礎を築いた人たちである。漱石も松山に赴き虚子と親交を深め、のち「ホトトギス」に小説を発表、近代文学に係わる松山の位置は高い。さて子規の跡を継いだ虚子の写生体、定型俳句は、友人でありライバルであった碧梧桐の自由律俳句に対し保守派とされたが、日本人の持つリズムに合って多くの人をひきつけた。今日百基も句碑の立つ俳人はあまりいない。私は京都御所の西側に住む。隣は羊羹の虎屋、前は白味噌の本田、鉄斎旧居があるが、同じく近所のもと知事公舎、今は京都府民ホール・アルテイの隣にホトトギスの同人で経済人であった中田余瓶氏の邸宅があり、その庭園に持明院殿跡にあった真黒石に自筆で彫られて立つのがこの句碑で、近所のよしみで採らせていただいた。句も書もわかり易く、いかにも老い行く秋を気取らず、滅入らず自然に詠んでいる。屋敷の前の烏丸通は銀杏がそろそろ黄葉しだす季節でもある。(70×40cm位)(2000年10月31日)

4.清水寺 岸駒(がんく)の虎

拓本・岸駒虎碑 京都 清水寺は33年に一度のご本尊ご開帳中、秘仏十一面千手観音は二臀を頭上に組手し化仏を頂く、他に類を見ない仏様です。さてその本堂(清水の舞台)にいくまでの門を上がったところ、境内端に建つのがこの灯籠です。普段は修学旅行の記念写真の後ろになってます。彫りが浅くて目立たないので、誰も見向きもしません。ところが拓本を見せると驚嘆の声が挙がります。拓本は目立たない隠れた美を顕在化します。素晴らしいはずです。この虎は江戸時代後期丸山応挙や谷文兆と覇を競った岸駒の作です。虎を描かせれば当代一といわれました。石に彫られた虎の最高峰ではないでしょうか。(145×110p) (2000年9月30日)

3.大雲寺梵鐘

再び釣鐘について。銘文「比叡山延暦寺西宝幢院鳴鐘天安二年八月九日至心鋳甄」。あれ文字が逆さま?これは逆に写したものではなく、鐘の内側にこのように彫られている。表から心眼で見よということか。世にも珍しい鐘ではある。天安2年(858年平安時代前期)の銘のあるこの鐘は国宝であるにかかわらず、十数年前京都観光寺院紛争の時、所在不明となり、問題になったが現在は京都国立博物館に保管されている。京都左京区岩倉の大雲寺は平安時代に建立された大寺であったが中世兵火に焼かれ荒廃したが江戸時代実相院共々再建され今日にいたる。元々比叡山にあった鐘が流転の後博物館にあるわけはここではお預け。(2000年8月20日)

2。方広寺の鐘

拓本・方広寺鐘 日本に鐘は数あれど歴史を変えた鐘はこれがピカ一。先月NHKの大河ドラマ葵三代でちょうど方広寺の鐘の銘文の拓本を持ち出していたので、こちらも引き出してみた。あの場面では真黒の烏金拓であったが、左の私の採った拓本でもわかるように、釣鐘の表面は研磨されていないのであんなに黒くは採れなかった筈だがと思い、十数年前、夜中梯子に登ってこわごわ採拓したことをおもいだした。一行目の中程、「国家安康、君臣豊楽」にはお寺で説明するためペンキのようなものが塗ってあり、余計拓しにくかった。なお字が小さく見にくくて申し訳ない。なお3月の鳩居堂個展には出演しておられた女優さんのお一人に来ていただいたのも奇遇だし、4月にねねの高台寺の釣鐘の採拓を頼まれたことも何か因縁を感じる。最後に大阪城炎上の日の翌日、大阪城ホールへコンサートに行ったことは蛇足。(2000年8月)

1.芭蕉翁 父母のしきりに恋し雉の声

拓本・芭蕉句碑 奈良と和歌山の境に位置する高野山は弘法大師空海の創建になる真言宗の総本山である。関西の人間は一生に一度は宗派を問わず訪れる。これは中世でも同じで多くの大名が寄進した大五輪塔が奥の院に通じる巨木の生い茂る参道の両側にその権力を象徴するようにびっしり立ち並んでいる。その参道中程五輪塔の間にこの拓本の碑が、その風格から周りにけして負けないで建っている。参道を通ってお参りする人々はそれまでの大名五輪塔に辟易してやってくると突然の句碑にホット人心地がつき、その素晴らしい句碑を見つめるのが常である。句は一六八七年作で「笈の小文」にあり、平易な内容であるが問題はその書。豪快な書は江戸中期の文人池大雅の手になるもので、碑陰(碑の裏)は大島蓼太の撰文が刻され、全国の数百ある芭蕉句碑中白眉の一碑である。1775年創建。(2000年7月)


戻る