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最初の頁 拓本とは 拓本の採り方 日本拓本研究会 拓本ギャラリー 白と黒の美の世界に魅せられた拓本家藪田夏秋の四五年にわたる拓本人生で採った千枚以上の拓本から名品を順次紹介。
拓本を表装した藪田夏秋作品は「掛軸と屏風」ホームページへ。 https://www.hyougu.com

This page introduces a masterpiece every month from 1000 or more sheets of Takuhon selected from the world of Takuhon created over a 40 year period by the Takuhon master, Kasyu Yabuta, These Takuhon capture the world of black and white beauty! Examples of Kasyu Yabuta's work are shown on the "Kakejiku and Byobu" pages including scrolls and panels.
(目次)51古代エジプト像立体拓本50夏秋拓装49伝染病研究所発祥の地48海の詩碑47古里や46東大寺八角灯篭拓本45富貴寺軒丸瓦44子規再び 43放哉句碑42東大寺南大門石獅子台座拓本41かにかくに碑40東大寺大仏殿八角燈籠火袋・音声菩薩拓本39東大寺雲上菩薩拓 38貴船断碑拓 37月心寺竹内留村句碑拓本 36飛鳥祝戸観音石仏拓本 35宇治橋断碑 34苞竹 33夏秋の世界 32大山巌碑拓本 31北村美術館と拓本 30スペイン扇子銅板拓本 29新羅十二支神像拓本 28興福寺板十二神将拓本 27江ノ島奥津宮石鳥居柱拓本 26西山宗因俳諧碑拓本 25板碑 24日本橋 23なまず拓本 22山部赤人歌碑拓本 21「コクリコ」与謝野晶子歌碑拓本 20魯孝王刻石「五鳳二年・・・」拓本 19酒井抱一の朝顔の碑 18大菩薩峠碑拓本 17梵字仏拓本 16新大仏寺獅子拓本 15仏足石拓本 14楓橋夜泊詩拓本 13石勘当 12近代俳句三匠碑 11繹山碑 10雲蜜峰の禹碑 9左馬  8漱石の文学碑 7西行 昆陽池歌碑 6額田王万葉歌碑 5高浜虚子句碑 4清水寺 岸駒の虎 3大雲寺梵鐘 2方広寺の鐘 1芭蕉碑 高野山

51 古代エジプト女性レリーフ断片立体拓本 (三角屏風・掛軸と屏風)

 エジプト像  エジプト像斜め
30年前に古代エジプトのレリーフ断片(模刻)を立体拓本して、三角形の屏風に仕立てて、個展に出品。義理の兄が購入してくれました。今年六月兄は亡くなり、この作品は里帰り!
実はこの作品をすっかり忘れていました。写真も撮っていませんでした。日の目をみてちょっとうれしいですね。
三角屏風については「掛軸と屏風」HPに載せます(2020.12.24)
 エジプト像
 立体拓本の採り方は、対象物に紙を貼り付けます。その上にCMCというセルローズを塗って、もう一枚張り、またCMC塗って、その上にもう一枚張り込み、数枚張り込んだ上に墨を打ち込んでいきます。その後乾かした後、対象物からポコッと剥がします。剥がせるのはCMCという乾燥すれば粘着が薄れる性質を利用しました。この和紙を張り込む方法は嵯峨面からヒントを得ました。
ここからが問題です。このままでは一時的には凹凸ができていますが、時間がたち湿度を含んでくるとフニャフニャになります。そこで内部には古い和紙細かく切って、詰めて形を保ちました。なので30年経っても形を保ってくれています。これを応用してかって東大寺展で大仏殿前・灯篭の音声菩薩を紺紙金泥拓本を採り、灯篭の形のして展示しました。よくやれたものです。今だったらできないうね。

エジプト像


50 夏秋拓装10    掛軸と屏風展覧会と連携

新型コロナウイルスでの接触回避の中、WEBサイトで一人でもよかったと思ってくれる人がいたらと思いチャレンジしました。HPで採録。
一日一枚、一切の説明なしに自らの作品をシェアし続ける。常に凛として行動し、情熱をもって、アートはかけがえのないものであり、人は藝術と共に生きてきたことを示しましょう。
Every day, select an image from a day in the life of a Performer/Artist – a photo from a day you felt fierce or a memorable moment you’ve had during a performance/show, and post it without a single explanation, then nominate somebody to take the challenge.
That’s 10 days, 10 Performance photos, 10 nominations and 0 explanations.

   
 1.東大寺南大門獅子台座花拓本 採拓させていただいた時、石像には結構ホコリが積もって、また垣根の内側の地面には鳩の死骸があったりで、チョット大変でした。重要文化財なで、汚すことも傷めることもできません!石も800年経つわけですから脆いかも、また水を吸ったら変色するかも、何より紙を通り抜けて石に墨がつくことは絶対に避けなければなりません。テストを繰り返しながら、これなら大丈夫とわかってから採拓しました。蓮弁や八角灯籠は銅製なのでまだよかったですが!  2.東大寺大仏殿前八角灯籠火袋扉獅子拓本 四面の音声菩薩は有名ですが、扉の部分の拓本はまずないと思います。獅子が四頭と仏華が彫刻されています。鍵が掛かっていて開くはずです。これを採拓した時は、八角灯籠火袋の部分は下の台柱(竿)から外され、奈良国立博物館に保管してありました。そこで採拓するとき、文化庁から火袋内部の調査に来ておられ、仮設の台の下から火袋に入って調査、私は外から扉の採拓という不思議な光景でした。なお鍵の部分は飛び出していますので、紙が結構破れ、裏打ちでうまく修復しました。
   
 3.東大寺大仏蓮弁二十二菩薩拓本 奈良大仏のお座りになる蓮弁は世界一大きなハスの花❗️二十二弁一つ一つに釈迦如来と二十二菩薩と三千世界、そして須弥山が鋳造された銅に線彫されています。昭和大修理の折、ヘルメットを被り、ほんのわずかな光の中で、返り花の30センチくらいの上に乗って採拓、墨の濃さは全く分からなくて、採拓後大仏殿から外に出てやっとわかるという、日頃の経験だけで採拓したものです。何日も通いました。天平の荘厳さと美とを肌に感じた素晴らしい時間でした。
4 薬師寺本尊台座四神・白虎
  東大寺の近くに薬師寺があります。国宝の薬師三尊の本尊・薬師如来は白鳳時代の仏様の最高傑作の一つです。その台座に彫られた葡萄唐草文や人物像、四神から、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国の影響が伺われ、シルクロードの終着点と言われる所以です。その中、四神の一つ白虎の拓本。
   

 5.京都宇治平等院梵鐘天女拓本 「すがた、形の平等院」「音の三井寺」「銘の神護寺」と言われる天下の三名鐘の一つで国宝です。神護寺の鐘の銘も表装しています。三井寺は撞きにいきました(^_^)実は国宝梵鐘を保存するため下ろされて、複製がかけられたおり、ゆえあって採拓させてもらいました。だから複製ですが図像はほとんど変わらないと思います。現在、鳳翔館にありますが、ご覧になっても、黒々としてあまり感激しないと思います。拓本にとるとバックが白くなって天女が浮き出て、今にも助けに来てくれそうでしょう
 6.浄瑠璃寺印仏拓本 京都と奈良の境の南山城に浄瑠璃寺があります。九躰寺とも言われる古刹です。近くには岩船寺があり、浄瑠璃寺と岩船寺の間の石仏群は素晴らしい景観です。かって近鉄と組んで近畿日本ブックスというシリーズを作り「笠置加茂」という小冊子を出版し、両寺とも春の桜のシーズン、秋の柿がたわわに実る山道を往復したものです。(今は出版から遠のいています)浄瑠璃寺の本尊は阿弥陀如来、それも九体並ばれるという壮大な阿弥陀堂(国宝)で、横にながーいお堂です。その本尊、平安末期作の木造阿弥陀如来(国宝)胎内から印仏が出てきて、多くが流出し、今日も骨董店では高く取引されています。私も昔、二点手に入れ、軸に仕立てました。さて二点ある阿弥陀様の多い方をコピーして銅版を作り採拓したものがこの掛軸です。摺りでも印でもない拓なので、拓仏と自ら呼んでいます^_^ もう一点の印仏も紹介します。
   

 7.アンコールワット騎士像拓本 アンコールワット現地の拓本は厚い紙で凹凸の極端に強い拓本です。この拓本は昭和期に採られたもので、すごく綺麗に採拓されてます。たまたまみつけました。現地の写真もどこかにあります。
 
8.上求菩提 下化衆生掛軸 超長編小説「大菩薩峠」(中里介山)の後半、失明した主人公・机竜之助は慶応三年(1867)白骨温泉で湯治します。翌年は明治維新です。ココで物語は作者の死でフツッと切れてしまいます。映画では竜之助を片岡千恵蔵、TVでは平幹二朗がやりました。音無の構え❗️この拓本は1990年代にスタッフ5、6人と上高地から白骨温泉に行き一泊した時に、ポケットに入れていた乾拓墨と小さな画仙紙で、山の風に邪魔されながら採ったものです。
   

 9.蕪村扇面掛軸
 「不二ひとつ埋みのこしての青葉哉 蕪村」
信州下諏訪の水月公園にあるこの碑は比較的小さなもので、扇面の縁取りのある珍しい碑です。随分昔に採拓しました。近くの旅館に泊まった時、このお部屋は昭和天皇がお泊まりになられたお部屋ですと言われて、恐れ多くも^ ^;;一段高い床の間で寝ました。そういえば吉野山の旅館に泊まった時も昭和天皇のお泊まりになったお部屋に泊めてもらいました。さて最近撮られたこの碑の写真をみると文字面が汚れています。魚拓のように石に墨つけて採ったのでしょうね。採り終えて文字が逆さまなのがわかって???大馬鹿ものと言いたい❗️
 
10 隈取
 拓本ではありませんが、歌舞伎で芝居の後隈取りした顔の化粧を落とす時、絹地に写しとります。とっても貴重なものです。直に取るから魚拓のようなものです。押し隈と言います。


49 伝染病研究所発祥の地

 伝染病碑  いま新型コロナウイルスの猛威が世界を覆っています。ウイルスの終息を願って掲載します。
先日私の拓本を整理していたら「伝染病研究所発祥の地」碑の拓本が偶然でてきました。何かの縁です!
碑が建てられたのが1992年なので、その後頼まれて採拓したものです。東京パナソニックビル1号館の敷地内で採った記憶があるので、多分二十数年前の拓本です。頼まれて採拓する場合、一枚は裏打、表装し渡しますので、これは予備に採った一枚です。依頼者は松下電器だとは思うのですが忘れました。今この碑は芝公園入口に立っているそうです。碑銘には
  傳染病研究所
   発祥の地
北里柴三郎は福沢諭吉はじめ民間の援助を受け明治25年11月30日この地に開設された大日本私立衛生会附属伝染病研究所において細菌学の研究を開始し伝染病の撲滅に多大の貢献をした 爾来伝染病研究所は幾度かの変遷を経て現在に至っている 創立百年にあたりゆかりの地に碑を建て先人の偉業を顕彰するものである
    平成4年11月吉日
  東京大学医科学研究所
  社団法人 北里研究所

48 海の詩碑

 生田春月詩碑  
小豆島は「二十四の瞳」で有名な瀬戸内の島ですが、文学碑の島でもあります。
この拓本は「海の詩碑」と呼ばれる碑から採った拓本です。
「春月之碑」
生田春月はプロレタリア詩人として大正時代に活躍したが、次第にニヒリズムとアナーキズムの世界に入り、昭和五年瀬戸内海航路の船上から身を投げ三十八歳の短い一生を終えました。船室には絶詩「海図」一編が残されていました。
遺体は小豆島坂手に漂着しました。七年後海を見下ろす小高い丘に碑が建てられました。高村豊周の鋳金で残された原稿が造られ、二メートル近い石に嵌め込まれ、その上部に石川三四郎による題字が彫られました。
石に銅板を嵌め込み、銅板の文字は凸に、題字の碑銘は凹に彫るという珍しい碑であります。碑を採拓した40年以上前には、海の見えないお寺にひっそり立っていました。とっても採拓しにくい碑できれいに採れませんでした。(2020.3.3)

「甲板にかゝつてゐる海図——それはこの内海の海図だ——ぢつとそれを見てゐると、一つの新しい、未知の世界が見えてくる。(中略)これが今のじぶんの心持ちををつくり現してゐるやうな気がする。今迄の世界が空白となつて自分の飛び込む未知の世界が、彩られるのだ。」


47 古里や臍の緒に泣くとしのく礼 芭蕉

 古里  古里拓本  

古里や臍の緒に泣くとしのく礼」 

松尾芭蕉が幼少期から29歳までを過ごした伊賀上野の生家前にある句碑です。
貞享4年10月に江戸を旅立ち、尾張・伊勢桑名を経て、年の暮れに伊賀上野に帰郷し、実家で新年を迎えます。このとき詠んだのがこの句です。

翌年3月には現在の大山田村富永の新大仏寺を訪れ、江戸初期の山津波によって堂塔が潰れ、仏頭のみが石の座に安置されるという荒れ果てた状況を見て詠んだ句

丈六に 陽炎(かげろう)高し 石の上

新大佛寺は東大寺を再興した重源のお寺でもあります。本尊の頭部は快慶作で、基壇と合わせて重要文化財です。
芭蕉が見たのはその基壇と快慶の作った頭部と言えます。

そのほか伊勢・吉野・高野山・須磨・明石などを巡っていますが、この間の紀行が『笈の小文』

私がこの生家を訪れたのは半世紀前になります。その20年後に掛軸にして銀座鳩居堂での個展に出品しました。
また35年前に新大佛寺を訪れて台座の獅子の拓本を採りました。この拓本も個展に出品しています。(2019.12.5)
 拓本獅子

46 東大寺大仏殿八角燈籠火袋・音声菩薩拓本(partⅱ) なおpartⅰは№40に掲載しています。

 音声菩薩拓本  音声菩薩
 朝日新聞 かって私が採拓した音声菩薩が大英博物館に展示されるとのこと、うれしいですね。一緒に拓本も展示されたらいいのですが?上の拓本と実物をご覧になると、実物のリアルな良さと、拓本の持つそぎ落とされたシンプルな良さが比較できます。拓本には清々しさを感じるのは私だけでしょうか?
(2019.6.22)

←朝日新聞190611


45 富貴寺出土軒丸瓦拓本

 富貴寺軒丸瓦  史跡と美術
 大分県国東半島富貴寺出土軒丸瓦拓本(薮田夏秋蔵)  「史迹と美術」891号(2019.1)史迹美術同攷会誌
1058回例会・清水寺→戻り橋



44 虚子句碑ふたたび

虚子



今から18年前の2000年10月にこのギャラリー5で紹介したこの句碑の拓本。今の我が歳にぴったりで再度登場、しかしこの碑のあった烏丸一条の中田邸はいまや「金剛能楽堂」、大きな芝生の庭にあった真黒石のこの碑はいまいずこ?歳月を感じます。
ところで高浜虚子は松山出身で一年上に河東碧梧桐、子規から虚子の名をもらい、碧梧桐と京都三高(現京大)入学、その後東京根岸の子規庵に転がり込むが、碧梧桐の元婚約者と結婚。終生仲が悪かったようです。しかし子規の後継者となり「ほととぎす」を主催して、俳諧の頂点に立ちました。晩年は鎌倉で過ごし、由比が浜の自宅で85歳で永眠。










43 尾崎放哉句碑拓本

放哉

「こんなよい 月をひとりで 見て 寝る  放哉  井泉水」   神戸市 須磨寺

尾崎放哉(1885- 1926) 種田山頭火らと並び、自由律俳句の最も著名な俳人の一人。
代表的な句  咳をしても一人  墓のうらに廻る  足のうら洗えば白くなる 
月の歌はこれらと比べれば俳句らしい句です。
若き頃、須磨寺で採拓しました。須磨寺は真言宗須磨寺派大本山。本尊は聖観音。
平安時代の初め、漁師が和田岬の沖で引き上げた聖観音像を886年(仁和2年)に聞鏡上人が現在の地に移したのが始まりとされています。
平敦盛遺愛の「青葉の笛」や弁慶の鐘、敦盛首塚、義経腰掛の松など、多数の重宝や史跡、正岡子規・松尾芭蕉句碑などがあります。



















今年の中秋の名月の10月4日、京都御所清所門に上る月



42東大寺南大門石獅子台座拓本

 石獅子鹿
 (上)東大寺南大門石獅子西方台座西面鹿拓本・(下)北面牡丹拓本
 石獅子牡丹
 石獅子西方西  石獅子西方北面
 石獅子西方台座西面図  石獅子西方台座北面図
 7月9日史迹美術同攷会例会で奈良の依水園と東大寺、奈良博物館に寄せてもらいました。ここでは重要文化財・東大寺南大門石獅子台座の鹿と牡丹拓本を載せておきます。この拓本は1973年から1980年にかけて行われた東大寺大仏殿昭和大修理のおり、依頼を受けて私が採拓したものです。当時金網に入ったときは鳩の死骸があったりしましたが、今のような観光客もなく、西方の石獅子基壇の羽目石の四面を採拓しました。その中、比較的模様が残っていたのがこの二つです。なお採拓にあたっては細心の注意を払い、傷みや汚れを出さないで採りました。今では調査のためでも直接触れないとのことなので、貴重な体験をさせていただきました。
なおいただいた資料では、研究成果として材質は中国浙江省寧波市の梅園石ではと言われています。また知人の調査に参加した西村金造・大造さんによると、中国で荒削りのあと持ち込まれたのではないか、また他の方も日本にきた中国の石工の手で完成したのではなかろうかと言われています。その石工が伊行末かどうかは書かれていません。
この南大門は中世初期東大寺を復興した重源の勧進によるものです。
かって私のもとで編集をしてもらっていた田中さんのご主人・京大名誉教授・故田中淡氏と重源の業績をたどって、兵庫県浄土寺浄土堂や伊賀上野の新大仏寺、そして山口県の瑠璃光寺回ったことは素晴らしい経験だったと思っています。資料は「石造物を通じて見た寧波と日本」中日石造物研究会より(2071.7.14)
 南大門  石獅子


41 かにかくに碑

 かにかくに碑拓本屏風  吉井勇色紙
「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」

歌碑のある場所は京都市東山区祇園元吉町白川の畔。 祇園のお多佳さんの「大友」という店の跡に建てられた碑。11月8日は「かいかくに祭」で舞妓さんが献花されます。 ずいぶん昔にこの碑の拓本を採らせていただきました。その後、風炉先屏風にして私の個展に出品しました。それから何十年、倉庫にしまっていたのですが、蝶番の部分に水が入り汚れてしまいました。修復をしようと思っていたところ、父の祇園の記事や、谷崎潤一郎の本を見つけて、少しまとめようと思っていたら、NHKBS12月10日「漱石悶々」というドラマが出てきて、ここにリレーショナルに載せてみました。 



40 
東大寺大仏殿八角燈籠火袋・音声菩薩拓本

燈籠拓本
2月22日の日本経済新聞の夕刊に、東大寺別当の筒井寛昭さんの東大寺八角燈籠の音声菩薩の拓本の話が載っています。拓本が取り上げられることは嬉しいですね。
実はこの方のお父さんの寛秀さんと昵懇で良く塔頭に寄せてもらいました。そのお父さん、寛昭さんにとってはおじいさんにあたる英俊さんが拓本を重要視され随分文化財を採拓され、見せてもらい、貴重なものは撮影もさせていただきました。

大仏殿の昭和大修理(1980年落慶)ではお寺から頼まれ国宝重文を採拓し、当時の別当清水公照さんが拓本の横に絵を描き、資金の一部に当てられました。またデパートでの「東大寺展」では菩薩の拓本を立体的に仕立て、まるで実物が立っているようにもしました。

当時(1975年前後)は工事の足場のため燈籠の火袋から上の部分を奈良国立博物館に移動し展示。博物館の休日の日に文化庁の調査に合わせて、私も採拓をしました。特に扉の部分は私以外は採拓していないのではないでしょうか。
大仏の座す蓮弁の採拓の時は、創建当時天平の姿がよく残っている真裏の蓮弁を採拓、ライトも届かず、大屋根修理中なので上からほこりや木片が落ちてくるのでヘルメットを被り、懐中電灯を持って、返り弁の上によじ登り、といっても幅はあまりなく、銅なので滑りやすく気を付けながら採りました。黒めの銅弁なので墨の付きがわからず、ほとんど今までの経験で濃さを想像し、採ってから明るいところに出て見てやっとこれならいいだろうとしました。

なお東大寺大仏殿昭和大修理については、わが舎から出版した「よみがえる鴟尾」福田静男著に詳しく述べられております。福田さんは朝日新聞社の方で、この方を通していろいろなプロジェクトが動いていました。わたしもこの方の依頼で始めた作業でした。今は他界されましたが、いつもムスタングのオープンカーで来られるダンディーな方でした。

よみがえる鴟尾」 福田静男著 綜芸舎刊 B6版194頁 1989.3.1発行 価1200円(税抜き)










39 東大寺大仏蓮弁雲上菩薩拓本

TBS
1996年1月・・・今から20年前の1月、TBSTVの夜の報道番組・スペースJのステージバックに私の拓本掛軸が8点ほどかざれれました。とっても晴れがましいことでした。その右端に丸く見えるのが東大寺大仏蓮弁の全拓です。
その蓮弁は中央に廬舎那仏、脇に二十二菩薩、上には雲の上に乗る雲上菩薩、下には三千世界が描かれ小さな仏様と寺院が彫られています。大仏は数度の火災で、創建当時のものではないのですが、蓮弁は幸いにも天平の姿をとどめています。(2016.2.2)











東大寺大仏蓮弁雲上菩薩拓本



38 
貴船神社奥宮 松尾いわほ句碑断碑拓本

 断碑  断碑掛軸







断碑
   貴船より奥に人住む葛の花 松尾いはほ
句碑の上半分が割れて無くなっています。実は貴船神社奥宮はつねずねパワースポットではないかと思っています。かっておとづれた時、人気のない境内で、幼子を抱いた若い夫婦が本殿と末社全てに蝋燭を挙げ熱心に拝んでいる姿を観て感激しました。そしてそこで見つけたのがこの碑です。バイクに乗っていたので、句のように貴船の奥に進もうと思ったのですが、大雨の後の悪路で途中で引き返しました。ちなみに奥には芹生(せりょう)があります。「丑の刻参り」はここが起源です。表装では上部に神を表す赤を右下には緑で杉を、軸近くには青で貴船川をデザインしました。(20151212)



37 月心寺 竹内留村句碑拓本

 月心寺留村拓本  月心寺留村軸  月心寺留村碑
日々訪うて日々夕時雨や月心寺 留村

京都と大津の境 逢坂の関は古来から有名で、百人一首 「これやこの 行くも帰るも 別れて 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸」があります。そのそばには名水が湧き出て走井と呼ばれ、茶店もありました。明治以降日本画家橋本関雪の別邸となり、月心寺となりました。戦後住職・村瀬明道尼の胡麻豆腐が有名となりましたが、亡くなられた後は橋本家が管理しておられます。参照:33夏秋の世界
このたび「ひょうほゑ展」開催にわたり前日会として月心寺を訪れ採拓させていただくこととなりました。詳細は
拓之会および掛軸と屏風HPをご覧ください。(2015.7.7)
37月心寺竹内留村句碑の読みの間違いをメールで教えていただきました。ありがとうございます。
「日々訪れて」は「日々訪うて」に修正します。




36 飛鳥祝戸観音石仏拓本

祝戸石仏拓本 



奈良県明日香村は古代遺跡の宝庫ですが、石舞台から少し行った祝戸という集落に無住の専称寺という古いお寺があり、如意輪観音石仏が祀られ信仰されています。1965年に鎌倉時代前期の石仏であることがわかりました。花崗岩の半肉彫石仏で、特に拓本に採るとその素晴らしさが引き立ちます。いつもは祀られているので全体が見られませんが、今から40年以上前に許可を得て、仏具やお飾りを外して採拓させていただきました。大きさは60×48㎝です。なおこの拓本は現在 史迹美術同攷会発行の月刊会誌「史迹と美術」の表紙を飾っています。



35 宇治橋断碑

 宇治橋断碑  宇治橋断碑掛軸 宇治橋断碑現状 
 宇治橋断碑昔
  今年初頭史迹美術同攷会例会で宇治に参りました。世界遺産宇治上神社と平等院は「綜芸舎」跡書をご覧いただくとしてここでは宇治川のほとりの橋寺を紹介します。宇治川は琵琶湖の水が大阪湾まで流れる水量が多い急流の大きな川で、幾度も橋が流されました。そのいきさつを刻した碑が建つお寺で、橋寺と呼ばれています。正式には604年聖徳太子発願で秦河勝が建立した常光寺地蔵院といいます。秦河勝に関しては弊舎綜芸舎より帰化人御研究2「秦河勝はたのかわかつ」(今井啓一著)を出版しておりますが残念ながら絶版になりました。
さて碑は宇治橋断碑と言われています。それは上部三分の一で割れ、後で継がれているからです。上部碑文には僧道澄が大化二年(646)に宇治橋を架けたいきさつを刻したものですが、下部は1791年に「帝王編年記」(14世紀)の文から新たに刻して今の姿になっています。書体は北魏様で日本では貴重な書道の資料となっています。
しかし銘文の内容についてはいくつかの疑義があり、父薮田嘉一郎が「石刻」(綜芸舎刊)で797年の建碑といっています。ウィキペディア「宇治橋断碑」にも記事がありますので参考にしてください。(2015.2.2)



34 苞竹吉田先生之碑 墨拓剪装本

 苞竹拓本  
剪装本(センソウホン)とは碑からとられた拓本を切り、本に仕上げたもので、机上に置き鑑賞し、勉強するために編み出された仕様。特に書道の勉強には欠かせないテキストです。なお元の拓本は全套本(ゼントウホン)と呼ばれます。最古の剪装本は敦煌で発見された653年唐の太宗の「温泉銘」です。
さて平成24年、書壇院の依頼で書壇院創設者・吉田苞竹記念碑の採拓をしましたが、その拓本から「苞竹吉田先生之碑 墨拓剪装本」が発行され、私が採拓した拓本が多くの方の書道の学習に役立つことは望外の喜びとなりました。
なお篆額の書と碑文の書は侯爵徳川義親(近藤春篁代筆)と言われています。
採拓記をご覧ください。
 書壇本



33 夏秋の世界・千のほとけと・・・拓本
       
ここで紹介する拓本は2013年10月29日から11月3日まで 東京・銀座・
鳩居堂画廊で開催した展覧会の作品です。
表装は掛軸と屏風(http://www.hyougu.com)WEBサイト内夏秋Galleryⅸで紹介していますので合わせてごらんください。

拓仏    頭塔
【拓 仏】 摺仏は木版に仏様を彫って、それを刷ったもの、中国唐代くらいから流行り、大量に刷れるため胎内仏などに使われました。また印仏も同じようですが、印章のように押して写したと思われます。日本でも平安後期からみられるようになりました。仏画を描くよりも手軽なので鎌倉以降庶民信仰とともに大量にすられました。
【一  阿弥陀一四七体拓仏拓本 
摺仏・印仏があるなら拓仏もあって良いのではないかとおもい、今回浄瑠璃寺阿弥陀如来像の胎内にあったと伝えられている阿弥陀如来座像摺仏から板を彫り、拓本にしました。ほかに「頭塔石仏拓本と拓仏」、「泰山金剛経佛黒色拓本」「同佛薄色拓本」「佛朱色拓本」に使いました。尚お暇な方はこの本には仏さまが何体おられるか数えてみてください。そうそう夫婦箱の折帖にも入っておられます。
【二   頭塔石仏拓本と拓仏】
奈良市高畑にある史跡頭塔は奈良時代の僧実忠の造営で「土塔」(どとう)であったが、平安時代玄昉の首塚という伝承から、今日では「頭塔」(ずとう)と呼ばれています。今日ではインドの仏塔から来たというのが定説のようです。
頭塔の各段には浮彫の石仏があり四十四基配置されていて全て重文です。塔は版築による方形の土壇で、基壇は一辺三十二m、高さ十m。その一体の如来座像浮彫石仏の拓本と拓仏を組み合わせました。一文字には十二支模様の古裂を使用しています。
 四方仏  阿弥陀
 【三  今宮神社四面仏(阿弥陀・銘天治二年)拓本】
京都市今宮神社の四面仏石(重文)は水成岩の四面に薬師・弥勒・阿弥陀・釈迦の顕教四仏の坐像を線刻するもので、阿弥陀如来の面の左方に平安時代・天治二年(1125)の紀年銘が刻まれています。四面のうち薬師一面の拓本が摩耗と同じ墨でないのでここでは除外し、三尊仏形式で仕立てました。  
 釈迦  勢至
  【四  今宮神社四面仏(弥勒)拓本】  【五  今宮神社四面仏(釈迦)拓本】
佛黒 

【六  泰山金剛経・佛黒色拓本】
中国山東省泰安県の泰山(海抜
1545m)の山腹の裾に経石峪とよばれる岩床に「金剛般若波羅密教」を刻した字の一字です。一字の大きさは約50㎝。
【七  泰山金剛経・佛薄色拓本】
黒色拓本紙が二層になっていたので剥がした二枚目のもの。墨が第一層を通り抜けてしまっています。
【八  泰山金剛経・佛朱拓本】
中国では朱拓は碑が造られたとき最初に採られるもので、おめでたいものです。

 佛白 泰山
 佛赤  泰山碑

 月

【十一  竹内留村句碑】
日々訪れて日々夕時雨や月心寺 留村

瑞米山月心寺は元は走井居と名付けられた日本画家橋本関雪の別邸です。この場所は江戸年間には入洛者が多く集まり、走井と呼ばれる名水を囲んでいくつかの茶屋が栄えていました。 逢坂の関についての歌も沢山詠まれていて、蝉丸や松尾芭蕉、小野小町などにも所縁のある土地となっています。かって月心寺の村瀬明道尼の胡麻豆腐が湯木貞一さんや白洲正子さんの紹介で有名になりました。亡くなられた後は橋本家が管理し、お料理もでます。ちなみに境内には小野小町百歳像が祀られています。


 【十二  芭蕉句碑拓本】 
大津絵の筆の始めは何仏 ばせお
大津絵は東海道、逢坂関の西側に位置する近江国追分(髭茶屋追分)を発祥の地で、月心寺の近くです。寛永年間
1624- 1644年)のころに仏画として描かれ始めましたが、やがて世俗画へと転じました。「大津絵の筆のはじめは何佛」には仏画が多かった初期の大津絵の特徴が表れています。阿弥陀仏や十三仏、青面金剛、千手観音、不動明王などが描かれました。
 芭蕉

 芭蕉句碑
 断碑

【十三  貴船奥宮断碑】 
貴船より奥に人住む葛の花 松尾いはほ

句碑の上半分が割れて無くなっています。実は貴船神社奥宮はつねずねパワースポットではないかと思っています。かっておとづれた時、人気のない境内で、幼子を抱いた若い夫婦が本殿と末社全てに蝋燭を挙げ熱心に拝んでいる姿を観て感激しました。そしてそこで見つけたのがこの碑です。バイクに乗っていたので、句のように貴船の奥に進もうと思ったのですが、大雨の後の悪路で途中で引き返しました。ちなみに奥には芹生(せりょう)があります。「丑の刻参り」はここが起源です。表装では上部に神を表す赤を右下には緑で杉を、軸近くには青で貴船川をデザインしました。

貴船 
 ナイト  【十四  英国十字軍騎士像拓本】
イギリスには乾拓Brass Rubbingがあります。対象物に紙を当て表面を擦って取る方法です。洋紙を使い、墨でなくチョーク(クレヨン)です。対象物は協会に置かれたブロンズの半肉彫りの騎士像です。ちなみにBrassは真鍮 Rubbingは擦るという意味。この騎士像は十字軍の遠征に行く騎士が寄進したとか。私の夢はイギリスで日本の墨と画仙紙を使う湿拓でこれらの像を採ることでした。それが2011年 日本の文化をイギリスに伝えるプロジェクトに参加し、拓本と屏風のワークショップをロンドンやケンブリッジで開き、多くの方に教える間、1日だけ休みをもらって採拓に出掛けました。場所はロンドンの中心部トラファルガー広場の
St Martin-in-the-Fields Church
の地階のLondon Brass Rubbing Centre.
 ロンドン採拓
大山碑   【一五  大山巌碑拓本屏風   四曲一双
東京千代田区九段坂の中程、田安門の右手に靖国通りの歩道に面した小公園の一隅に馬上の大山巌の銅像が立っています。大山は西郷隆盛の従弟で薩英戦争で火力の重要性を悟り、日本の砲兵の第一人者として活躍します。会津若松で八重?に討たれて重傷。西南戦争では政府軍の指揮官として戦い郷里を敵にしました。その後陸軍大臣をつとめ、日清戦争では第二軍司令官、日露戦争では満州軍総司令官をつとめました。日露戦争以後、橘中佐や広瀬中佐のように国家に貢献した軍人が神格化される風潮を嫌い、自分の死後は神格化しないよう遺言したが国葬、かろうじて大山神社が創建されることだけは免れました。
さてこの銅像の横に塀のように立っているのが大山巌顕彰碑です。一般には顕彰碑は顕彰される人を美辞麗句で飾りますが、この碑は事実のみを淡々書いためづらしいものです。しかしこれだけの巨大な碑、中でも一字が30㎝もあるものは他に無いのでは。そしてデザイン的な篆書も素敵です。三十年前東京に出てきたときこの碑に出あっていつか採拓したいと思っていました。昨年たまたまこの碑をみると随分風化劣化しています。材質がコンクリートなので剥落も起こっています。千代田区にお願いして仲間を募って採拓しました。昨年五月から八月いっぱいまで五回、延22人の参加を得ました。今回その中から選んだ拓本を屏風に仕立てました。(採拓者・宮部君恵・村松勝美・須貝久・尾崎正道・佐藤すみ代・設楽舞・久保田茜子等各氏)



32 大山巌碑拓本

 大山
 東京千代田区九段坂の大山巌銅像の横に立つ碑で、高さ2.8m巾7.6mの衝立風碑で、中に56文字の碑文と刻者名がコンクリート材質に鋳込められています。大正8年製作のため風化が著しく、今のうちに採拓しないと残らないとの思いで有志を募って採拓しました。そして10月29日から11月3日まで東京銀座の鳩居堂で行われる洗山・夏秋展に四曲一双の屏風に仕立てて展示します。文字は篆書で高田竹山という書家、彫りは田鶴季です。

「元 帥 陸 軍 大 将 従 一 位 大 勲 位 功 一 級 公 爵 大 山 巌 天 保 十 三 年 十 月 十 日 生 於 鹿 児 島 従 日 清 日 露 両 大 戦 役 大 正 五 年 十 二 月 十 日 薨 於 東 京 (大正○○○○○○高田○周 田鶴季刻)」

大山巌は現在「八重の春」や「坂の上の雲」でもおなじみの軍人です。西郷隆盛の従弟ですが西南戦争ででは敵味方に分かれてしまいました。(2013.10.13)



31 
北村美術館と拓本

灯篭   灯篭 藪田嘉一郎が中国の拓本技法を紹介した「拓本の作り方」を1963年綜芸舎から上棟してから50年、拓本技法のバイブルとしてロングセラーを続けていましたが、綜芸舎HPでも述べたように近年の活版離れで、再販ができなくなり数年経ちました。結構難解な本だったので、もっと一般向けにということで発行したのが「拓本入門」もどうように出せなくなりました。
さてこの本で採り方を紹介した中に、北村謹次郎さんの許可を得て、石灯籠の火袋の石仏を採拓し掲載しました。
今年6月北村美術館に寄せてもらい、採拓撮影した石灯籠や宝筐印塔の基礎などを再び見られて感無量になりました。(2012.8.8)

参照:「掛軸と屏風」夏秋徒然草75 北村美術館の表具
   :「綜芸舎」鴨東史談ⅱ 16宝筐印塔・五輪塔・北村謹次郎



30 スペインの扇子の銅版拓本

扇子

英国ケンブリッジのSt Barnabas press で見つけたスペインの扇子の銅板から採拓しました。ここはシルクスクリーンやプリンティングアートを制作している工房です。
もともと印刷にかかわっていた私、とって興味を示したら、チーフのイギリス人、喜んでくれて工房内を案内、相当古い印刷機など見せてくれました。説明もされたのですが何分半分しか英語理解できませんでした。ちなみに奥さんは中国人、なので受講生も中国四、五人参加。しかし中国で生まれた拓本も屏風のことも知りませんでした。日本も中国も同じことですね。
(2011.07.23)












29 新羅十二支神像卯拓本

兎


韓国新羅(5~7世紀)は石造美術の宝庫です。この十二支神像は王陵の四方に立てて御陵の守りとしました。4年前には鼠の神像拓本を掲載しています(夏秋独り言41)。























28 興福寺板十二神将拓本

興福寺

興福寺国宝館がリニューアルオープン、皆さんのお目当ては阿修羅像! こちらは国宝板彫十二神将、板に半肉彫りで彫られた仏様はとっても珍しく貴重です。世界中で、木に彫られた古代の彫刻はまずないでしょうね。
そしてこの仏様の拓本はもっと珍しく貴重です。今は亡くなられたさる方が採拓されたものを昔撮影させてもらいました。
拓本になったときの実物とは違う迫力はこれぞ拓本、アートです。

























27 江ノ島奥津宮石鳥居柱拓本


江の島


10年ほど前に江ノ島で採拓会したときに採ったものです。模様がとってもよかったので採拓しました。この模様は江戸期の歌舞伎の衣装に観られる、江戸っ子の粋を彫り込んだようなデザインではないでしょうか。
石の鳥居にこのような模様が彫られていることなど江ノ島にこられるほとんど100%のかたは気がつかないで通り過ぎるでしょうね。
拓本にとって、今年10月に鳩居堂で「夏秋・洗山展」に掛軸として展示して、はじめて注目を集めました。このように多くの過去の文化財と其のデザインが拓本を通して蘇ることは、改めて拓本の素晴らしさを認識するものです。(09.12.30)



















26 西山宗因俳諧碑拓本

碑
7月関西の夏まつりは京都祇園祭と大阪天神祭り、その天満天神をよりどころに活躍したのは俳諧の祖といわれた西山宗因、1647天満宮連歌所の宗匠になると共に、連歌、俳諧を全国に広めました。これを記念して今も門のところに建っているのがこの碑です。
拓本は、石の形がおもしろいので全体を薄く、文字の部分を濃く採ってみました。今から30年ほど前の作品です。
拓本寸法(2009.7.7)

      宵のとし 雨ふりける元旦に 一に梅花

          浪華津に さく夜の雨や 花の春
 
              誹談林初祖梅翁 西山宗因

















25 板碑拓本

梵字日本の中世の板碑は関東に非常に多い仏教遺物ですが、どうしてうまれ、廃れて行ったのか未解決の部分が多いものです。
今回埼玉県嵐山町で「板碑が語る中世ー造立とその背景」というシンポジウムが1月24日開かれました。これは埼玉県立嵐山史跡の博物館で2月22日まで開催されている「板碑が語る中世」展の企画です。

板碑は13世紀鎌倉時代に関東特に埼玉県を中心に現れ、南北朝に栄え、江戸17世紀には消滅します。
板状に切った石に仏像や梵字を刻み、大きなものでは2mもあり、亡くなった武士や有力農民の供養塔として建てられたと言われています。
シンポでは坂詰秀一立正大学名誉教授が、関東地方に栄えた天台浄土教の影響で形は五輪塔を模し、内容は阿弥陀信仰ではないかと発表。また磯野治司氏は木製板碑は唐幡が起源ではないかと発表されました。(この項は中日新聞1月27日参照)

埼玉で以前板碑採拓しているのですが、所蔵拓本見つからないので、ここでは関西の梵字仏を掲載します。

兵庫県加西市北条の石棺仏、板状ですがこれは古代石棺を再利用して阿弥陀三尊が彫られています。年号は建治3年(1277)の銘がありますので、関東地方で最も古い板碑の1227年から50年後の古いものです。
内容は中央に梵字阿弥陀如来(キリーク)、右に観音菩薩(サ)、左に勢至菩薩(サク)が彫られています。

さて関東と関西の板碑の違いはなんでしょうか。阿弥陀信仰は間違いないですが、五輪塔や唐幡の影響は・・・というと違うようです。これからの研究課題です。
なお会場では拓本の実習が行われたとのこと、うれしいことです。(2009.2.3)










24 日本橋拓本

日本橋


今年はNHK大河ドラマ「篤姫」大ヒットしたそうです。連続もの見るのに負担を感じる私は見ませんでした。
さてその篤姫=天璋院とは最初仲が悪かったラストショウグン徳川慶喜の筆になるのが、この柱銘です。
大江戸日本橋ができたのが慶長八年(1603)二代将軍秀忠の時だと言われています。当然木橋であったのは浮世絵なんかで分かります。
それから300余年15代まで何度橋は架け替えられたでしょうか。明治維新当時は石橋になっていたかはわかりませんが、橋柱は石で、そこに橋銘が彫られました。
いまこの柱は向島の百花園の片隅に置かれています。現在日本橋あたりは高速道路が上にあって、景観が台無しです。石原東京都知事はこの一帯を昔に戻そうとしているそうです。その時はこの石も記念として戻りますかね。

ところで日本橋は慶長九年に日本の中心と定められ、国内里程の元標になっています。双六の出発点ですね。上がりは京三条大橋!

百花園は東京都墨田区向島にある名勝史跡で、名の通り多くの草花があり、その間に江戸時代の歌碑句碑などが散在しています。この拓本は今から30年前、墨田区からの依頼で採拓したものです。(2009.1.1










23なまず拓本

なまず

















奈良の鹿寄せが、笛を吹いても鹿があまり集まらなくなったとか。観客が増えすぎたからだそうです。
なぜ?それは「鹿男あをによし」というテレビドラマが流行っているからだとか。
もともとは万城目学の小説のドラマ化です。彼の作品は一作目から注目していたのでちょっとうれしくなりました。
さて物語は太古から日本の地底にはナマズがいて、また暴れだしたので、鎮めるため、卑弥呼の鏡(三角縁神獣鏡)を使うという話。
そのなまずを鎮めるため、江戸時代に、京都の大徳寺の隣、今宮神社の摂社の台石に彫られたのが、このナマズです。
京都ではこのナマズのおかげで地震があまり起こりません。
拓本はずいぶん前、採らしてもらいましたが、低い位置なので座り込んで取ったものです。





22山部赤人歌碑拓本

赤人

滋賀県琵琶湖のほとり蒲生野にひっそりと建つ「山部神社」、その隣には「赤人寺」神にも仏にもなった宮廷歌人 山部宿禰赤人は柿本人麻呂とともに奈良時代に活躍しました。
この神社には赤人の有名な歌「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」の大きな歌碑があります。この歌は小倉百人一首でも有名ですね。
ここではもう一つ建つ小碑の拓本を載せます。
「春野能 春み礼摘迩と古し我そ 野をなつかし三 一夜寝に計留」(正八位 渡忠秋勤書)(万葉集巻8 1424)
ここでは内容は別にして文字について考えてみます。
まず万葉歌碑は原書体がないということです。そこで1184年につくられた元暦校本などから写し取るか、書家や有名人の書を用いる以外に方法はない。ここでは江戸時代の文人が書いています。
本来は万葉仮名で書くべきものを、それでは読めないだろうということで、60%が漢字仮名交じり文だそうです。
さて校本とつき合わせてみると、「春野能」は「春野迩」の間違い、久遠に残るとは思わないが、長年にわたって残っていくわけですから、書く人は心して書いてほしいものです。(碑の高さ50㎝)(08.01.01)
さて、赤人の活躍した時代、聖武天皇の御代のお話は「なあに「夏秋独り言41」に載せます。





21 「コクリコ」与謝野晶子歌碑拓本

晶子
与謝野晶子が鉄幹を追いかけてパリに来たとき詠んだ歌 
「ああ皐月ふらんすの野は火の色す 君もコクリコ われもコクリコ」

この碑はいまパリ三越に建っているはずです。建碑したのは晶子をこよなく愛し、全国に27か所に晶子歌碑を建てた富村俊造の海外に建てた碑です。
その富村さんが今年3月100歳で亡くなられました。深く哀悼の意を表します。

30年来、碑をつくるたびに声をかけていただいて、採拓しました。このコクリコの碑もそうですが、多くはまだ石屋にある時に採ったものです。歌碑の採拓1号の名誉をいただいたこと、拓本家冥利に尽きます。

南座の前にある碑を採って、1枚は富村さんへ、1枚は南座に寄贈したら、その後数年南座から招待券をいただき、「こんな附録素敵です」と、富村さんに話したら、「わしいんとこ送ってきいひんなー」なんて、シンボルのベレー帽をとって頭をかかれたので、「富村さんはちゃんと切符買ってくれるお得意さんですもの」といって大笑いしました。このベレー帽はスイスアーミーのもんやと話しておられたことついこの前のことのように思い出されます。
あの世で晶子さんに会っておられるかしら。(2007.7.3)






20 魯孝王刻石「五鳳二年・・・」拓本
五凰

今から千年ほど前に、曲阜の霊光殿遺跡から発見されたこの石は、その後孔子廟堂に置かれました。その表面に刻まれた文字は「五鳳二年 魯丗四年 六月四日成」と刻まれています。五鳳二年は紀元前56年、二千年も昔の石です。「年」の字の縦が伸びているので長脚書法といわれます。
さて私は今から三十年近く前 1979年8月山東省曲阜を訪れました。文革後としては最初の日本人だったそうです。孔子廟の中に泊まって、漢代の碑を見ると共に、中国人の拓工(プロ)と技術交流をしました。
廟内の漢碑の撮影は禁じられていたのですが、交渉の結果 代表者1名のみ撮影が許可されました。一緒に行った11人のグループの一人あの榊獏山さんがシャッターを押しました。なおグループにはもう一人今や書壇の重鎮・成瀬映山さんもおられました。
この拓本は中国の拓工のものです。
その当時中国はとっても貧乏でした。でも帰り際に遠くまで送ってくれた曲阜の人たちの素朴でやさしい微笑みは忘れられません。今この地は世界文化遺産に指定されました。整備され奇麗になったでしょうが、もはやあの純朴さは消えたのではないでしょうか。
4月13日中国の温家宝首相が京都に来て、立命館大学を訪れました。ここには孔子学院が開設されています。孔子学院は中国文化(中華思想)を世界に広める世界戦略の拠点です。今や世界中に140校出来ているそうです。
孔子の生まれた土地を訪れたときから考えるとその発展にはびっくりします。それに引き替え日本はそういう戦略はあるのでしょうか。(2007.4.15)








19 酒井胞一の朝顔の碑

朝顔東京雑司ヶ谷に有名な鬼子母神があります。人の子を食らうといわれた鬼子母神、釈迦の導きで安産子育ての守り本尊となりましたが、ここ雑司ヶ谷の鬼子母神はやさしい菩薩の姿をしておられるとか。昔懐かしい都電にのってここを訪れると、江戸の下町が思い起こされてとっても素敵な場所です。
さてこの近くの「法明寺」にこの朝顔の画像碑が建っています。「舜塚」といわれるこの碑には「舜(あさがお)やくりから竜のやさすがた 富久」という句が彫られています。
富久は戸張喜惣次という刀剣の彫師で、朝顔の竹竿に巻き付く姿を、刀剣の柄に彫られる竜の姿に似ているところから詠まれたのでしょう。朝顔を観て歌ったのか、絵を見て歌ったのか。画家が句を見て絵を描いたのかわかりかねますが、絵描きが江戸後期一流の画家「酒井抱一」だったため、今日まで名碑として残っています。
酒井抱一は尾形光琳に私淑した画家で、私の名前でもある「夏秋草図」(正式には『風雨草花図』東博蔵、重要文化財)は 光琳の「風神雷神図」屏風の裏面に描くというパーフォマンスで、大好きな画家です。屏風は両面が使えるんだということを最初にわかった人ではないでしょうか。
さてこの碑の拓本は結構彫りが浅くって採りにくかった記憶があります。若いときに採っているので、いまならもっとうまくとれたのではないかと悔やまれます。
採拓はいつもうまくとれるとは限りません。技術もさりながら、その日の天候や、碑の大きさ、石の状態、碑のある場所など多くの不確定要素が入ります。同じ碑でも今日採ったように明日は採れません。名人が採っても、天候が悪ければ、別の日の採った初心者の拓本に負けるかもしれません。それがまた魅力があり、挑戦しがいがあります。(2006.8.10)



















18 大菩薩峠の碑拓本

大菩薩


大衆文学の一大記念碑といわれる中里介山の大長編小説「大菩薩峠」は大正二年(1913)に始まり昭和十六年(1941)まで書き続けられましたが未完に終わりました。
主人公の机竜之介は盲目の虚無的な剣豪として描かれ後々までヒーローとして人気を博しました。
その竜之介が目を治すため訪れたのが信州上高地途中の白骨温泉でした。それを記念して白井恭二らによって昭和29年(1954)温泉入り口に日が建てられました。
一基二碑形式で上部の自然石には「小説大菩薩峠記念碑」と彫られ、下部の台石にはプレートがはめ込まれて
「上求菩提 下化衆生 介山居士題」と彫られています。
「上求菩提」は菩薩が自己のために菩提を求めること、「下化衆生」は菩薩が人々を教化済度することを意味します。介山の理想の言葉で、山と上下から峠を、そして大菩薩峠が生まれたといわれています。
採拓当時は強風で、湿拓は諦めて乾拓にしましたが、机竜之介のイメージが出たのではないでしょうか。
その後和歌山の竜神温泉に行った時、ここにも竜之介は来たとのこと。縁ですね。
(2006.5.20)









17 梵字仏拓本

梵字


梵字はサンスクリットともいわれ、古代インド文字です。紀元前にうまれ、仏教の隆盛した
23世紀には今日みられるような形になりました。梵字とはインドの古代宗教の創造神梵天(ブラフマン)の文字で、仏教の文字として使われた。これが仏教の伝播の重要な担い手として中国、そして日本へと伝わったのです。ところがインドでは短期間ですたれ、中国でも唐代でしか使われなかった梵字が日本に仏教伝来とともに入ってくると日本人にとって非常に霊力のある荘厳な文字として受入れられ、二千年たつ今日でも僧侶の書く塔婆や墓石に生きています。梵字は世界の中でたった一つ日本でのみ残った文字なのです。
さてこの拓本は兵庫県加西市北条の五百羅漢の側にある石棺仏です。関東では梵字仏は緑泥片岩の板碑に彫られるますが、関西では古代の石棺を利用したものもあります。内容は中央に阿弥陀如来(キリーク)、右に観音菩薩()をおく阿弥陀三尊形式をとります。下に建治三年(一二七七)の銘があり、鎌倉中期の、梵字が装飾過剰になる前ののびのびした字体のものといえます。(2006.2.1)












16 新大仏寺獅子拓本

獅子今年は戌年、犬の代わりに珠で遊んでいる獅子を載せました。中国の文化を吸収して花開いた日本の美術工芸も、石造美術に関しては見るべきものが少ないのは、我が国の風土から木と紙の文化となり、石の文化ではなかったせいでしょう。古代仏教伝播の当時は隋、唐からの渡来人の手になる素晴らしい石彫品が生まれましたが、後が続きませんでした。ところが鎌倉初期、大仏再建に際しては多くの宋の大工、金工、石工を呼び寄せ、当時の先端技術で造立されました。南大門のこま犬はそれらの石工の手になるものであります。そしてこの拓本の獅子も東大寺ゆかりの三重県新大仏寺の大仏台座に彫られたもので、デザインといい、彫刻技術といい卓越したものといえます。これらの作品をつくった人たち、またその子孫、一派を伊系の石工といい、あとあとまで優秀な技術の作品を残しています。工芸特に石造品の作者名は殆ど判らないが伊行末を頂点にする伊系の作品は各地に今も残っています。(2006.1.1)









15. 仏足石拓本

仏足石 釈迦入減の後仏教は大いに隆盛し、釈迦を慕って各地に記念物が立てられました。しかし仏となった釈迦の姿を表現することは当時の人々の意ではなく、釈迦の代わりに菩提樹を当てたりしました。また釈迦が訪れた場所ではその足跡を描くことによって、釈迦の姿の代わりとしました。それが仏足石と言われるもので、そこには仏を証明する色々な模様が描かれています。日本にも天平時代に伝わったものが今日薬師寺に残っています。(この仏足石の傍らにある碑が仏足石歌碑でその拓本を夏拓秋装展ⅲで展示)。この拓本は京都の北の真教寺にある仏足石です。不思議なことに仏足石は天平以来殆ど作られず江戸時代になって突然復活しました。これにはいろいろ理由があるでしょうが、たぶん平安以降の仏教の様変わりによるのでしょう。観音信仰、阿弥陀信仰、密教の流行が釈迦の足を押し退けたといってよいでしょう。しかしどういった風の吹き回しか江戸時代に復活し、以後今日まで各地に多くの仏足石がたてられ、今も立てられています。
仏足石の採拓はとっても楽です。ほとんどが横になっており、おまけに小さいのでやりやすい対象物です。(2005.11.1)




14.楓橋夜泊詩拓本

拓本 拓本 中国で日本人にもっとも有名なお寺 寒山寺は502年創建、幾度も焼失、現在は清1900年の再建です。寺にあるこの碑もあまりにも有名で、中国のお土産の拓本といえば、この詩と寒山拾得画像碑の真っ黒にとった拓本で、烏(からす)の羽のように黒いところから烏金拓(うこんたく)と呼ばれています。拓本といえばこのように黒く採るのかなと思われ困ることがあります。蝉翅拓(せんしたく)という蝉の羽のように薄く採る採りかともあるのです。お土産の拓本は現在模刻から採られています。それが右の拓本です。30年前参詣したときは今ある拓本の元碑とここで紹介する原碑がガラスで覆われていましたが今はどうなのでしょうか。楓橋夜泊詩は唐代750年ごろの人、張継の詩で、碑は明代にたてられました。文徴明の書といわれほとんど風化してしまいました。それを採ったのが左の拓本です。「月落烏啼霜満天 江楓漁火対愁眠 姑蘇城外寒山寺 夜半鐘声至客船」。旧碑拓本を創作掛軸にして「夏秋展in京都」で展示しました。http://www.hyougu.com/gallery4.html(005.6.9)
なんと最近フイルムを整理していたらかって行った寒山寺が出てきました。旧碑と新碑を紹介します。(2005.7.1)





13.石勘当

石勘当 この石勘当という文字を彫った碑や道標を見たことはないでしょうか。江戸時代には結構あちこちにあったみたいです。今日では中国から沖縄、西日本に残っています。T字道路の突き当たりに立ち、道の安全を守ったといわれ、道教の影響とも言われています。この拓本の石は碑でなく石灯籠で、加茂川にかかる勧進橋にたち、灯りと文字で安全を守ったものだったのでしょう。文字は幕末の三筆といわれる書家貫名菘翁の書といわれています。現在は京都市南区陶化小学校の校庭に移っています。(寸法140cm×41cm)
拓本は表装され、4月12日~17日まで東京銀座鳩居堂で開催しました藪田夏秋の個展「夏拓秋装展ⅲ」で展示いたしました。(2005.5.5)




12.近代俳句三匠碑

三匠 昨年11月に行われました山口県防府市の山頭火句碑採拓会で会場の山頭火菩提寺「護国寺」門を入った場所にある碑。浅草寺には宗因、芭蕉、基角の三匠碑というものがありますが、ここでは、種田山頭火、河東碧梧桐、荻原井泉水の碑です。近代俳句三匠碑でしょうか。
「てふてふうらからおもてへ」 山頭火
「水鳥群るヽ石山の大津の烟」 碧梧桐
「はるさめの石のしつくする」 井泉水
碧梧桐と虚子は子規門下の双璧、伝統的な五七五調の虚子と対立。定型や季題にとらわれない自由律を提唱、荻原井泉水と行動を共にしました。ここに山頭火も加わっています。すべて直筆、碧梧桐は原寸、御影石(H50cm×W85cm)で、採拓後、和紙の柔らか味を出そうと思い、裏打しないで撮影しました。それぞれ句もいいですが、書も素晴らしく、特に碧梧桐の書は好きです。(2005.1.1)




11.繹山碑

蜜山

先日中国で最大のヒット映画「英雄」を見ました。秦の始皇帝が皇帝になる前の時代、彼を狙う暗殺者の物語、なかなか良く出来た映画で、アクションとスケールが話題になりましたが、わたくし的には隠れたテーマである文字に興味が湧きました。紀元前紙が生まれる前の時代ですから、砂に文字を書いたり、布に書いたり、書庫には竹簡がうずたかく積まれていたりととっても面白い場面がありました。始皇帝はご存知のように焚書坑儒といって、書物、当然紙の本でなく竹簡を燃やし、儒教を弾圧したことで有名ですが、色々な文字が各地にあったのを統一(小篆)したことは特筆すべき業績です。造られた文字を国中に広げるにはどうしたか。始皇帝は小篆文字のぎっしり詰まった石碑を全国各地に立てて広めたのです。なんと素晴らしいアイデア、この後中国では現代にいたるまで石碑が無数に立つようになりました。
繹山碑はその最初で記念すべき碑でした。過去形にしたのは、唐代にこの名碑の拓本をもとめること多く、住民が難儀して燃やしてしまったのです。焚碑坑拓ですね。ではなぜこの拓本があるかというと、宋代の人が拓本をもとに新たに碑を立て、それから採られたのがこの拓本なのです。(03.10.10)




10.雲蜜峰の禹碑

蜜山 中国湖南省衡山県衡山という山の南峰を雲蜜峰とか祝融峰とか句婁(くる)山と称され、山頂に古代神話の時代 夏の禹帝が黄河の治水に成功したことを称えた碑が立っていたといわれていました。のち790年ごろ唐の劉禹錫が詠んだ詩に「嘗聞祝融峰 上有神禹碑 古石瑯杆姿 秘文虎形」が、また唐の韓愈(800年ごろ)にも句婁山の詩があり、山頂に碑があり、動物を模ったような不思議な文字(科斗文字)が彫られていたが、誰も見たものがないと詠まれています。先年大阪の中国人の骨董商から手に入れたのがこの碑?の拓本です。裏に雲蜜峰碑と書かれた短冊が貼られていました。なにぶん買ったときはどういう由来の拓本かわからず、ただ石の模様と字形の蜜山面白さで手に入れたものです。三年前、フインランドで拓本を展示することになり、見栄えのする絵のような文字のこの拓本を表装し展示しました。そのご銀座鳩居堂での個展でも展示したところ何人かの書家から興味を示されました。この拓本が原碑からとられたものか、模刻か定かでありません。現在も碑が存在するのかどうかもわかりません。でも拓本そのものは相当昔に採られたものと思われます。夏の禹王は紀元前2000年前の王です。今から4000年前ですよ。中国雄大なることよ。青字は元字が標準漢字にないので代用しました。(2003.3.3)




9.左馬

拓本・左馬 2002年・平成14年もすでにふた月を過ぎ、春遠おからじの今日この頃です。さて今年は午年でした。でしたというのは今年賀状欠礼したため、干支に無関心で、今頃気がついたのです。そこで馬の拓本を紹介します。中国には馬を彫刻した画像石は結構ありますが、日本では案外少ないようです。その中で最高傑作はこの左馬ではないでしょうか。平安時代の作と言い伝えられていますが、東大寺南大門の狛犬や三重県新大仏寺台座の彫刻をした宋人石工の作品ではないかと思われます。馬を愛した中国人の手で流動感あふれる姿に彫られています。さてこの画像石は京都南部に広がるハイテク都市の手前にある井手の山奥にあります。かっては俊成や貫之、小町の歌に読まれた井手の玉水という、清らかな水が湧き出る土地でありました。山道の谷川に人目も引かず転がっています。たぶん山道の山側にたててあったものが、いつの頃か洪水で転落し、おまけにうつむきになってしまったのです。少し幸いなことに、別の石の上にのっているので、下の土を掘り、体を中に入れて、懐中電灯で照らしながら採った拓本です。約1㍍ほどあり、下向きですから、相当の労力と熟練が必要でした。勿論若き日の採拓でした。転落する前左馬と言われ、近在の水商売の方の信仰を集めたそうです。隠れた馬も拓本でよみがえり、今年も宜しく。(2002.3.1)




8.漱石の文学碑

拓本・漱石碑 私の店 画廊 拓は東京神田神保町の古本屋街の真ん中にあります。隣が駿河台下で、角に三省堂書店があります。ここを東に坂を上がると明治大学を過ぎてお茶の水に出ます。さてその駿河台下の交差点の裏道を少し入ったところに小学校があります。かって錦華小学校と呼ばれ、統合でお茶の水小学校と名前を変えたところです。ここの校庭の外にこの碑が建っています。神田は本の街としてつとに有名ですが、記念とする文学碑がなにもない街です。貴重な碑といえます。さて夏目漱石は明治元年(1867)新宿牛込に江戸奉行名主の子として生まれたが生後まもなく里子に出され、二歳の時には四谷の名主の養子になっている。しかし10歳の時には生家に戻っている。この間小学校を三度変わっている。錦華小学校に通ったのが生家に戻る前か後かはわからないが、小さな物心つかない子供にとっては波瀾万丈の生い立ちである。碑文は漱石の最初の小説「吾輩は猫である」の書き出しからとられている。10年ほど前春爛漫の時、散り落ちるサクラの花びらが碑に着いたのを一緒にとった記念すべき拓本。惜しむらくは見物するギャラリーが多く急いで片づけて折り目に墨が着いてしまったこと。なお目の前に、私の著作を数多く出版してくれている日貿出版社があります。(2001.4.20)




7.西行法師 昆陽池の歌碑

拓本・西行歌碑 平安時代から鎌倉時代、貴族社会から武士社会への転換にあって北面武士(今の親衛隊)から一介の僧に転身し、動乱の中、旅から旅へ放浪しながら歌詠みとしていきぬいた、西行の生き様は後の芭蕉を含めて多くの人に共感を与えた。自然を平易に描写した歌は親しみやすく今も愛されている歌人である。さてこの碑は兵庫県伊丹市の昆陽池の岸辺に建つ。昆陽池は古代からここにある大きな池で古来多くの人が歌を詠んでいる。渡り鳥が飛来する池の周りにはそういった歌碑がいくつか点在する。近年は神戸大地震の慰霊に使われて記憶に新しい。碑の文字は画家、詩人、随筆家、書家でもある中川一政である。江戸時代だったら文人と呼ばれたであろう一政は形にとらわれない画や書、文をかき、西行に通じるものを感じる。特にこの碑の書体は西行の歌とよく合っており、私の大好きな碑の一つである。(拓本80×40㎝)2001.3.9




6.額田王万葉歌碑

拓本・額田王歌碑 額田王を巡っての中兄大皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の争いは天智の勝利となり、一件落着をみたかに思われた古代ロマンの世界も、近江の蒲生野のピクニックで雲行きが怪しくなる。時は668年5月5日朝まだはやきもやの中で、紫草が一面に生茂る中を歩く今や天皇の女・額田王、そこに現われたかっての恋人・大海人皇子 「もう私は人の妻、近寄らないで」と歌い、「いや、人の妻であろうとなかろうとおまえが好きだ」と歌う。これを不倫、不貞の歌と切り捨てる人もいれば、おおらかな古代歌謡のロマンと感動する人もいる。しかし三年後天智天皇は亡くなり、壬申の乱の後大海人皇子は天武天皇となる。額田王を軸にどのように歴史は回ったのか。つきぬ興味がある。
      天皇遊猟蒲生野時額田王歌
  茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
      皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇謚曰天武天皇 
  紫草のにほへる妹をにくくあらば人嬬ゆえに吾れ恋ひめやも

滋賀県八日市市船岡山山上の巨岩に150×100センチの御影石を嵌め込んだこの碑の拓本は若き日焼け付く真夏の中、梯子をそばの松にくくりつけて採った物。見る人によってはあまりうまくない拓本と思われるが、採拓者にとっては見るたびにそのときの熱い風が心をよぎる拓本である。(ついでに我が高校は京都市船岡山麓の紫野高校、額田王のような素敵な同級生はいたかなあ・・・関係ないか) 2001.2.1




5.高浜虚子の句碑

拓本・虚子句碑 近代俳句の基を築いた子規には二人の弟子、虚子と河東碧梧桐がいた。師、弟子とも愛媛県松山の生まれで、近代俳句の基礎を築いた人たちである。漱石も松山に赴き虚子と親交を深め、のち「ホトトギス」に小説を発表、近代文学に係わる松山の位置は高い。さて子規の跡を継いだ虚子の写生体、定型俳句は、友人でありライバルであった碧梧桐の自由律俳句に対し保守派とされたが、日本人の持つリズムに合って多くの人をひきつけた。今日百基も句碑の立つ俳人はあまりいない。私は京都御所の西側に住む。隣は羊羹の虎屋、前は白味噌の本田、鉄斎旧居があるが、同じく近所のもと知事公舎、今は京都府民ホール・アルテイの隣にホトトギスの同人で経済人であった中田余瓶氏の邸宅があり、その庭園に持明院殿跡にあった真黒石に自筆で彫られて立つのがこの句碑で、近所のよしみで採らせていただいた。句も書もわかり易く、いかにも老い行く秋を気取らず、滅入らず自然に詠んでいる。屋敷の前の烏丸通は銀杏がそろそろ黄葉しだす季節でもある。(70×40cm位)(2000年10月31日)




4.清水寺 岸駒(がんく)の虎

拓本・岸駒虎碑 京都 清水寺は33年に一度のご本尊ご開帳中、秘仏十一面千手観音は二臀を頭上に組手し化仏を頂く、他に類を見ない仏様です。さてその本堂(清水の舞台)にいくまでの門を上がったところ、境内端に建つのがこの灯籠です。普段は修学旅行の記念写真の後ろになってます。彫りが浅くて目立たないので、誰も見向きもしません。ところが拓本を見せると驚嘆の声が挙がります。拓本は目立たない隠れた美を顕在化します。素晴らしいはずです。この虎は江戸時代後期丸山応挙や谷文兆と覇を競った岸駒の作です。虎を描かせれば当代一といわれました。石に彫られた虎の最高峰ではないでしょうか。(145×110㎝) (2000年9月30日)




3.大雲寺梵鐘

鐘 再び釣鐘について。銘文「比叡山延暦寺西宝幢院鳴鐘天安二年八月九日至心鋳甄」。あれ文字が逆さま?これは逆に写したものではなく、鐘の内側にこのように彫られている。表から心眼で見よということか。世にも珍しい鐘ではある。天安2年(858年平安時代前期)の銘のあるこの鐘は国宝であるにかかわらず、十数年前京都観光寺院紛争の時、所在不明となり、問題になったが現在は京都国立博物館に保管されている。京都左京区岩倉の大雲寺は平安時代に建立された大寺であったが中世兵火に焼かれ荒廃したが江戸時代実相院共々再建され今日にいたる。元々比叡山にあった鐘が流転の後博物館にあるわけはここではお預け。(2000年8月20日)




2。方広寺の鐘

拓本・方広寺鐘 日本に鐘は数あれど歴史を変えた鐘はこれがピカ一。先月NHKの大河ドラマ葵三代でちょうど方広寺の鐘の銘文の拓本を持ち出していたので、こちらも引き出してみた。あの場面では真黒の烏金拓であったが、左の私の採った拓本でもわかるように、釣鐘の表面は研磨されていないのであんなに黒くは採れなかった筈だがと思い、十数年前、夜中梯子に登ってこわごわ採拓したことをおもいだした。一行目の中程、「国家安康、君臣豊楽」にはお寺で説明するためペンキのようなものが塗ってあり、余計拓しにくかった。なお字が小さく見にくくて申し訳ない。なお3月の鳩居堂個展には出演しておられた女優さんのお一人に来ていただいたのも奇遇だし、4月にねねの高台寺の釣鐘の採拓を頼まれたことも何か因縁を感じる。最後に大阪城炎上の日の翌日、大阪城ホールへコンサートに行ったことは蛇足。(2000年8月)




1.芭蕉翁 父母のしきりに恋し雉の声

拓本・芭蕉句碑 奈良と和歌山の境に位置する高野山は弘法大師空海の創建になる真言宗の総本山である。関西の人間は一生に一度は宗派を問わず訪れる。これは中世でも同じで多くの大名が寄進した大五輪塔が奥の院に通じる巨木の生い茂る参道の両側にその権力を象徴するようにびっしり立ち並んでいる。その参道中程五輪塔の間にこの拓本の碑が、その風格から周りにけして負けないで建っている。参道を通ってお参りする人々はそれまでの大名五輪塔に辟易してやってくると突然の句碑にホット人心地がつき、その素晴らしい句碑を見つめるのが常である。句は一六八七年作で「笈の小文」にあり、平易な内容であるが問題はその書。豪快な書は江戸中期の文人池大雅の手になるもので、碑陰(碑の裏)は大島蓼太の撰文が刻され、全国の数百ある芭蕉句碑中白眉の一碑である。1775年創建。(2000年7月)


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