夏秋独り言 ⅱ Top 夏秋独り言ⅰ  拓本とは  拓本とり方  採拓記  拓本資料 拓之会   ギャラリー 戻り橋ⅱ
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夏秋独り言ⅱ 夏秋独り言ⅰ(1-43) 
72法隆寺釈迦三尊光背銘文拓本71清澄庭園芭蕉句碑と名石70エミレの鐘69終戦記念日に68磨崖の書67東大寺拓本展66浅草寺ノンキナトウサン碑 65春日曼荼羅石拓本 64タモリ拓本 63憲法九条拓本展 62若冲拓画 61宗像大社 60鞆の浦 59興福寺十二神将 58インドサルナート 57突厥の碑発見 56狛坂磨崖仏 55石工・窪世祥 54吾輩は猫である 53白隠と拓本52菓子拓と楽器拓 51大山巌記念碑 50広開土王碑と中村不折と子規 49BrassRubbing 48吉備真備母楊貴氏拓本47天上大風拓本 良寛 46清水寺岩駒虎拓本 45開通褒斜道刻石拓本 44絵になる拓本 43拓本の効果に就いて 42只管打墨 41隼人石拓本 40筆神拓本 39拓画軸 38歌碑断碑 37フロッタージュ 36延暦寺宝幢院鐘拓本 35葉拓 34隼人石拓本 33井真成拓本 32モンゴルの碑拓本 31頭塔石仏拓本 30藤原定方 29高台寺梵鐘拓本 28東大寺八角灯篭竿拓本 27棟方志功鐘 26井 真成 25只管打坐 24清田拓本展 23真夏の採拓 22大唐三蔵聖教之序 21拓本満開の5月 20拓本の裏打 19いわ猿&きか猿 18アンコールワット拓本展 17伊東拓本コンクール 16青銅器鐘 15書籍紹介 14新年の決意  13拓本の講習 12訪ね碑? 11夏拓秋装展ⅱ 10フインランドから帰国 9綜芸舎HPオープン  8 IMPACT  7フインランドへ  6通産省 5大学で拓本指導  4拓乃会 3吉野山 2四大文明展 1但馬

夏秋独り言 72 法隆寺釈迦三尊光背銘文拓本

 銘文拓本 釈迦三尊光背 
 
東京藝術大学美術館で開催された「素心伝心」シルクロード特別企画展・クローン文化財 失われた刻の再生 を観ました。拓本は古代中国で生まれた貴重な石や金属に刻まれた文化財を多くの人や後代まで残す優れた複製技術です。書聖・王義之の書はいまや拓本でしかみられません。私の最近採拓した江戸時代の墓碑も、今は壊され拓本のみ残っています。

今回、メインに置かれた法隆寺釈迦三尊像は最新の3Dとクローン技術と伝統的な金工や修復技術を使い数年かけて作られた限りなく本物に近い作品です。そして同じように造られた光背、後ろを見る機会も、まして写真を撮る機会もありませんので、今回はとってもありがたいですね。有名な光背の銘文はクローンから作り出された金属に新たに金工が彫り込んでいます。多分それから拓本もとれるでしょうね。採りたいものです。

「法隆寺金堂本尊釈迦三尊像の舟形光背の裏面中央に刻された196文字の銘文である。銘文には造像の年紀(623年)や聖徳太子の没年月日などが見え、法隆寺や太子に関する研究の基礎資料となり、法隆寺金堂薬師如来像光背銘とともに日本の金石文の白眉と言われる。また、造像の施主・動機・祈願・仏師のすべてを記しており、このような銘文を有する仏像としては日本最古で、史料の限られた日本の古代美術史において貴重な文字史料となっている。文体は和風を交えながらも漢文に近く、文中に四六駢儷文を交えて文章を荘重なものとし、構成も洗練されている。ただし、本銘文の真偽についてはさまざまに議論されており、現在でもこの銘文を後世の追刻とする見方もある」( wikimediaより)

この銘文については古来諸説が多々あり、私の父・薮田嘉一郎もいくつか論文を書いております。ここでは題名のみ記しておきます。
「法隆寺金堂薬師・釈迦像光背の銘文について」 仏教芸術 7号 1950
「法隆寺蔵戊子年釈迦三尊造像記考」 日本史研究 2号 1946 など
 釈迦三尊光背拡大



夏秋独り言 71 清澄庭園芭蕉句碑と名石

 古池や碑  古池や拓本  「古池や蛙とびこむ水の音」は松尾芭蕉の超有名俳句です。拓本はかって伊賀上野の蓑虫庵で採拓したものです。蓑虫庵は門弟服部土芳の草庵で、帰郷したおり住まいとした処で今も残っています。
さて写真は巨岩に刻まれた同じ「古池や・・・」の句碑です。東京・江東区の清澄庭園にあります。実はここから400メートルいったところに深川芭蕉庵跡があり、貞享三年(1685)春、詠まれたのがこの句なのです。元は芭蕉庵に建てられたのですが、ここに移されました。またこの庭園の近くの彩荼庵跡から元禄二年(1689)「奥の細道」旅立ちました。

  「なつめ水鉢」摂津御影石
 清澄庭園  なつめ手水
 清澄庭園は紀伊国屋文左衛門の屋敷跡?といわれたところで、明治11年(1878)岩崎弥太郎が取得し回遊式林泉庭園として造園し、関東大震災の後、東京に寄付されました。広大な池の周辺に樹木を配置した素晴らしい庭園ですが、特に全国の名石を配置したことでも有名です。
拓本は金属や木からも採拓しますが、圧倒的に石に刻まれた文字や画像を採拓します。一か所でこれだけ多くの種類の石を拝見できるのは珍しいので、ここではその名石を紹介しておきます。 
 保津川石  
← 水鉢 保津川石




 井筒 伊勢御影石 →
 伊勢御影
 秩父青石 

← 秩父青石









    伊豆式根島石→
 式根島石
伊豆磯石  伊勢御影石 
    ↑ 伊豆磯石            九重塔 伊勢御影石
 真鶴石  

←真鶴石



     伊豆川奈石→
 川名石
 伊豆青石


←武州三波青石





  紀州青石→
 紀州青石
 赤玉石


  ←佐渡赤玉石





 山灯籠
  讃岐御影石→
 山燈籠
 石仏  石仏群 関東によくみられる庚申信仰の石仏です。中心には阿弥陀像(1679)、右に庚申塔(1670)、左前に馬頭観音(1774)など江戸初期のものです。
東京都の管理する庭園は九つあり、岩崎弥太郎に関するものっは台東区池之端の旧岩崎邸と六義園があり、三菱財閥の凄さがうかがえしれます。
(2017.6.6)
 橋


夏秋独り言 70 エミレの鐘

 エミレの鐘  エミレの鐘2  

韓国の大統領が窮地に立っています。かって日本との関係が良かった時代、韓国を訪れました。そこで出会ったこの鐘に魅了され、国宝なので採拓できませんから、慶州博物館で購入し、一対は屏風に、一対は掛軸に仕立てました。
エミレの鐘と言われるこの鐘は正式名称は聖徳大王神鐘といい、聖徳王の冥福を祈る目的で景徳王の時代から鋳造を始め、恵恭王7年(771年)になって完成したもの。制作には何度となく失敗しており、溶けた銅の中に少女を生贄として投げ込んでようやく鋳造に成功し、鐘を撞くと「エミレ(お母さん)!」と叫んでいるように聞こえたとの言い伝えからエミレの鐘の愛称(悲称)があります。東洋における最大規模の梵鐘であり、高さ333㎝、口径227㎝、重さ25t。国宝第29号に指定され、国立慶州博物館の野外庭園に展示されています。ちなみに京都知恩院は高さ327m、口径273㎝重さ約70tあります。
ところで新羅を含め、高句麗、百済の三国の時代を記録した「三国史記」は朝鮮最古の史書です。その次に古い「三国遺事」の研究書「三国遺事考証」はかってわが舎で出版しました。

夏秋独り言 69 終戦記念日に・・・

 週報


  亡父の蔵書を整理していたところ、昭和20年6月27日発行の「週報」(官報)が出てきました。終戦の二ヶ月前、沖縄決戦で負け、いよいよ本土決戦という時期です。すでに本土にもたび重なる空襲で被害を受けているのにかかわらず、本土を戦場にして戦おうとしています。大本営の説明では、特攻機がある限り決して負けないといっています。特攻一機で戦艦1隻を沈めるから大丈夫との説明。戦後我々が観た映像では、ほとんどが自爆する前に撃ち落されています。こんな根も葉もない情報で国民すべてを特攻に仕立てようとしたのです。
ところが10頁からの「決戦下の乗車心得」を読むと当時の国力と国民の気持ちが大本営とはかけ離れていることが垣間見られます。
発行から二ヶ月もたたない8月15日終戦となり、もっと多くの国民が死なずに済んだことをいまはただただ感謝し、多くの亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、以下に週報全文を載せます。(2016.8.14)
 週報01
 週報02 週報03  週報04 
 週報05 週報06  週報07 
 週報08 週報09   週報10
 週報11  週報12 週報13 
 週報14 週報15  週報16 


夏秋独り言 68 磨崖の書

柳澤1  柳澤2
書壇院理事長の柳澤朱篁の書展が7月東京銀座画廊で開催されました。かって書壇院創設者・吉田苞竹碑採拓で懇意になった柳沢さんの個展です。中国磨崖碑に刻まれた文字のインスピレーションから制作された作品群。特に李白詩は横9mある巨大なものです。段ボールを剥がして扁平にして書かれたもので、焦げ茶の部分は柿渋を塗ってイメージを出しています。私の最も好きな拓本は開通褒斜道刻石拓本なのでうれしくなりました。(2016.8.8)


夏秋独り言 67 東大寺拓本展の思い出

 東大寺拓本展  東大寺拓本展出品
 近鉄百貨店の当時のチラシ  拓本展展示・八角燈籠の四面を立体に採り、現物があるように見せたものです。このように拓本を立体化し、展示したのは私が初めてだと思います。
 東大寺大仏殿蓮弁採拓現場
大仏蓮弁に張り付いて採拓、暗がりで懐中電灯頼りでした。

6月30日の朝日新聞夕刊文化欄「東大寺・・・」の講座の記事、今回第222世別当に狭川普門さんが就任されるのに合わせて、9日に東大寺で行われた講座では狭川宗玄長老と鈴木嘉吉さんの対談、なんと狭川さんは95歳でお元気です。その中で大仏殿昭和大修理のお話、私にとっても懐かしく有意義な時期でした。たまたま最近書類を整理してた中に当時の近鉄百貨店のチラシが見つかり時代を感じていたところでした。この拓本展の拓本採拓を担当し、東京や大阪、四国などの催事にも帯同しました。狭川さんとは何回も打ち合わせをし、また今回別当になられる普門さん、当時はまだ青年僧でしたが、催事場で一緒に解説したりしていました。別当就任おめでとうございます。(2016.7.7)
東大寺瓦


夏秋独り言 66 浅草寺ノンキナトウサン碑拓本

 のんきなとうさん

浅草寺は江戸最古のお寺です。ご存知のように観音様は秘仏です。かっても賑わったように今もすごい人出で、特に海外の方が多いようです。
江戸中期境内西隅に奧山という広場ができ大道芸で賑わいました。そこから芝居や娯楽施設が境内の外に移り、江戸のエンターテインメントの中心となっていったのです。
今から40年ほど前、境内の石碑の拓本採拓のため寄せてもらって多くの碑を採りました。当時は境内には浮浪者が多くいて、お寺から鑑札をもらい、荷物はたえずそばに置いておくようにと言われました。実際に採り始めると、お金を請求されたので、観察を見せると黙って行ってしまいました。
そこで採ったのが「曾我廼家御五九郎碑」ノンキナトウサンの碑です。拓本の方がその姿をよく表しています。
 五九郎碑
 曾我廼家五九朗は明治~昭和前期に東京浅草などで 活躍した喜劇俳優で喜劇王といわれ、この像は主演を演じた映画「ノンキナトウサン」、上の碑額には彼が好きだった「群盲撫象」の文字。
今回寄せてもらったら、この碑を含め多くの碑が一か所に集められ「新奧山」として整地されていました。
 永生の碧  
五九朗碑の奥にある「永生の碧」郭沫若碑を採拓して、当時入院していた父親に見せたところとっても喜んでもらいました。郭沫若の業績はいろいろありますが、日本にいたころの金石文の研究をとっても評価していました。

芭蕉の名句に
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」
がありますが、この句が刻された三匠碑が境内にあります。三匠とは
西山宗因 「ながむとて花にもいたし頸の骨」、
榎本其角 「ゆく水や何にとどまるのりの味」
と芭蕉です。
碑は文化六年(1809)の建立。200年以上屋外にあると相当剥落しています。(2016.6.6)
 三匠碑


夏秋独り言 65 春日曼荼羅石拓本 TOPページのバックの拓本

春日曼荼羅石拓本

正式には「春日社本地曼荼羅石」、 花崗岩製で高さ126cmの板石状のものです

興福寺の主要伽藍の仏像を線刻していますが、唯一右下隅の五重塔を浮き彫り
するという手の込んだ彫刻です。鎌倉時代の作で、石に刻んだ画像では唯一の作品です

石は奈良・十輪院の境内のお堂に納められています。(2016.2.2)

興福寺ついては拓本資料40 丙申 興福寺南圓堂銅燈籠銘拓本 をご覧ください。















夏秋独り言 64 タモリ 拓本を採る
tamori


8月22日NHKのブラタモリ出雲篇で旧家で見つかった大量の版木をタモリさんが採拓しました。版木ですから普通は墨付けて版画にしたらいいのに、なぜか水で湿らせて紙を当てタンポに拓本墨をつけて採りました。たぶん版木に墨をつけたくなかったのでしょう。でも文字が逆さ文字になってしまいます。これは拓本技法ですよと言ってくれれば良かったのですが。(2015.8.28)













夏秋独り言 63 憲法九条拓本展

 憲法九条拓本 №9
憲法九条を石板に日本語、中国語、韓国語、英語、フランス語に彫り、それを採拓し展示する個展「№9」を吉川恭生さんが7月開かれました。採拓方法をこちらに聴きにに来られ、あまり練習もせずに採られたとか。結構上手に拓本は仕上がっています。写真に写っているように本人もユニークな方です。この場所は河原町三条を一筋下がって東に入った「MEDIA SHOP」、見ているとき河原町通りを憲法九条を守れというデモが通って行きました。なんというタイミングのよさでしょうか。(2015.8.8)






夏秋独り言 62 若冲拓画

若冲

江戸時代の奇想の画家:伊藤若冲は極彩色の絵を描く傍ら「墨拓版画」といわれる版画をつくっています。これは拓本の採拓と同じ方法で木版を摺ります。現在は京都の版画版元「芸艸堂」(うんそうどう)で摺られています。さて芸艸堂の名前はとっても読みにくいですね。これは富岡鉄斎の命名で、みかん科の多年草:芸艸からきているとか。私はてっきり奈良時代の最初の図書館「艸亭」(うんてい)からきていると思っていました。それにしても我が家のすぐ近くに住んでいた鉄斎さんは、我が家のお隣の虎屋さんのために虎描いたり、木版元の命名したり忙しい方です。(2014.12.12)















夏秋独り言 61 宗像大社阿弥陀経石拓本

 usasekigan  usataku  usataku2
 宗像大社は福岡県にある由緒ある神社ですが、特に沖ノ島は島全体がご神体であります。そしてこの大社は我が国の大陸との窓口でもありました。鎌倉時代には南宋との交流から「阿弥陀経石」(重文)が伝わっています。さて経石に彫られた阿弥陀如来は石を彫くぼめた中に彫りだす石龕仏です。これを採拓するとき文字を重視する場合は石仏を採らないことが多いです。右は2005年に採拓されています。私なら別々に採拓して裏打ちで合成して作品にします。
左の拓本は採られていない空白の部分に仙厓が阿弥陀像を描いた貴重なものです。仙厓義梵は江戸後期の禅僧で画家でもあります。〇△□図で有名です。1828年に描かれていますので、江戸時代の採拓としても貴重です。(141001)






夏秋独り言 60
 鞆の浦 安国寺石造地蔵菩薩坐像

 usasekigan2 taku  tomosekibutu
 広島県福山市鞆の浦の安国寺は 元金宝寺といって鎌倉時代創建の禅宗寺院で、今日重文の釈迦堂とやはり重文の木造阿弥陀三尊立像が残る古寺です。門前には地蔵堂があり、やはり鎌倉時代の石仏が残っています。石仏の年代特定は難しいものですが光背背面に元徳二年造立の銘文が彫られていることから1330年制作の美しい石仏です。この銘文は拓本を採らなければ解読が難しく、拓本の有用性が証明されました。総高219㎝。
「慈父恩高如山王 慈母恩深如六海 我若住世於一劫 説父母不能喜牟 右意趣者 為沙弥円乗並比丘尼妙蓮 逆修善根 此地蔵菩薩 所造立之也 元徳二年卯月廿日 願主 藤原定氏」 






夏秋独り言 59 興福寺十二神将と国立競技場壁画

 kouhukuji  kokuritukyougijyou  kyougijyoukabe
 2020年東京オリンピック開催に伴い、現在の国立競技場を解体することが決まりました。そこで正面の壁画を残すかどうかが
論議されていました。そして説明ではこの壁画は野見宿祢となっています。しかしこれって興福寺の国宝十二神将(平安時代)の
迷企羅大将そっくりです。だれが描いたかは知りませんが間違いを正してほしい。(140707)






夏秋独り言 58 インド・サルナート(鹿野苑)採拓

 印度軸  印度採拓  1985年今から28年前訪れたインド、忘却の前に記録にとどめておくことにしました。採拓許可をインド政府に出したのですがなかなか返事がなく、見切り発車で旅たちました。旅行記のメインの記事は「掛軸と屏風」に掲載しておりますが、ここではやっととれた拓本の話です。
昭和60年12月25日インドについた私たち、といっても三人はカルカッタを後にサルナートに参りました。ここはインド4大聖地の一つ釈迦が初めて説法をしたところで、日本では鹿野苑と言われています。アショカ王が3世紀に建てたストゥーパの近くの寺院跡と思われるところにある石片を採拓。青い服が私で、赤い服が同行の健二さん。その奥にはガイドの方。周りにはインド人が見守っています。取り終えるのを見計ったように管理人が拓本を取り上げてしまいました。びっくりしてガイドを見ると、彼についていくようにと言われて建物の陰に入ると、お金を請求されました。一種のわいろなのでしょうね。しょうがないのでいくばくかのルピーを渡しました。日本円にすれば千円以内だったと記憶しています。とういことで無事取り戻しました。
最近のサルナートを写真で見ると完全に整地されきれいになっていました。今だったら採れないでしょうね。(2014.2.2)参照 掛軸と屏風 印度紀行ⅱ






夏秋独り言 57 突厥
の碑発見

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7月17日の朝日新聞「突厥」語る大碑文 8世紀の遊牧民阪大教授120年ぶり発見・・阪大のモンゴル調査は随分前からはじまり、多くの碑文の拓本を私の方で裏打ちしました。阪大ではユーラシア大陸がシルクロードとは別の文明交流の路であったという壮大な調査の一環です。突厥はトルコ系ですからね。今回の調査では拓本道具、材料を提供しました。また別の大学のモンゴル調査にも拓本材料を提供。今夏出発されました。以前は早稲田大のエジプト調査にも拓本材料、また南米にも送っています。少しは役に立てたのかなと思っています。

(写真は採拓中の隊員・朝日新聞より)20130811
















夏秋独り言 56 狛坂磨崖仏

komasaka   komasakataku
 2013年7月2日朝日新聞(夕刊)「天下逸品」で狛坂磨崖仏が紹介されていました。このHPで2年前「拓本資料23」(2010)で紹介したのと同じように白洲正子の話から記事にしています。前回はこの磨崖仏についてはほとんど紹介しなかったので、ここで簡単に触れておきます。
狛坂磨崖仏は滋賀県栗東市にある金勝寺山中の狛坂廃寺近くにあり、奈良時代彫られたと言われています。新聞では新羅顔と言われていますが、中国雲崗石窟仏に近い姿ではないでしょうか。いずれにしてもこれだけの大きく立派な石窟仏は日本では他に無く素晴らしいもので、今一度行きたいものです。 なお採拓した拓本はどこにしまったのか未だ出てきません。(2013.7.15)
参照:滋賀県観光情報






夏秋独り言 55 石工・窪世祥

mon   hi 先日東京で採拓した拓本を拓友に見せたところこの石工は「窪世祥」 だと分かりました。調べてみると江戸末期?の江戸三石工の一人と言われた名人で、この碑以外に東京向島百花園に彫った碑が残っています。

百花園は東京都墨田区東向島三丁目にある1806年開園された江戸情緒あふれる植物園で、多くの文人墨客が来園したと言われています。またここには江戸から明治にかけての文学碑が数多く残っていて、拓本家は誰もが行きたがる場所ですが最近はなかなか採れません。
今から30年ほど前に墨田区からの依頼で園内の全碑を採拓し寄贈しました。またそのおり許可を得て自分用に採拓したのが下の「日本橋」と「山上憶良碑」です。奇しくもそれを彫った石工が窪世祥で、今回の東京での石碑と同じだったのです。(この碑については依頼主の許可が出れば発表したいと思っています。)
 sekihi  akikusa  さてその石工・窪世祥が彫ったという「山上憶良歌碑」は万葉集 8巻1537・1538「秋の野の花を詠める二首」です。
「秋の野に咲きたる花をおよび折りかき数ふれば七草ななくさの花
萩の花尾花をばな葛花くずばな瞿麦なでしこの花 女郎花をみなへしまた藤袴ふぢばかま朝貌あさがほの花」


山上憶良は1300年前の社会派万葉歌人で「貧窮問答歌」「子を思ふ歌」で有名ですね。
 nihonbasi  nihonbasitaku  園内に或るもう一つ注目すべきものは、「日本橋」という石柱です。これは言うまでもなく、お江戸日本橋のことです。もともと木の橋であったものが、明治の初期石橋に変わり、明治44年には二重橋に変わり、最近では橋の中ほどにある素晴らしい彫金の「麒麟」が小説・映画の題材になっています。
この碑は石橋に変わった当時のものなのでしょう。字は徳川慶喜と言われています。最近では小泉純一郎の長男孝太郎が「八重の桜」で演じていますね。以前元木雅弘が演じた大河ドラマ「徳川慶喜」の方が良かったです。(2013.5.1)






夏秋独り言 54 吾輩は猫である

漱石   漱石部分  夏目漱石の「吾輩は猫である」はあまりにも有名ですが、この拓本の碑は、漱石が通った東京駿河台下の錦華小学校の校庭の外にたっています。いまは名前変わってお茶ノ水小学校になりました。

今から20年ほど前の春の一日、この碑の拓本を採っているとハラハラと桜の花びらが舞い落ちてきて濡れた画仙紙の上にひっつきました。ゴミや虫なら払い落として墨を叩くのですが、記念にと思って花びらごと採拓しました。当時は神保町に京都から進出した間もない頃ですから、忙しくしていた合間のホンの一息の一瞬・・・今となってはいい思い出です。
蛇足:花の形は画仙紙に残りましたが、はなびらは真っ黒、ごめんなさいね(2013.3.15)。






夏秋独り言 53 白隠と拓本

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渋谷bunkamuraでの白隠展を観て、白隠は拓本が好きなんだと直感しました。これって我田引水? この維摩居士の絵を観てください。背景を墨で真黒に塗りつぶしていますね。普通だったらこんな面倒なことはしませんよね。過去日本で描かれた絵でも書かれた書でもまずありません。それを丁寧にというか斑を気にしないで塗りこめています。これはまさに拓のもつ黒の中にある白のインパクトを感じたからにほかありません。数点こういう絵があります。中には寒山と拾得が漢詩の拓本を広げてみている絵まであります。中国寒山寺には寒山・拾得が彫られた拓本がありますが、ここでは寒山と拾得が拓本を持っているのですからうれしいですね。ということで1600年代には拓本が日本にも中国から入っていたこともわかります。(寒山と拾得は非僧非俗で風狂の徒であったと言われるが実は菩薩だったらしい)(2013.1.30) なおHP掛軸と屏風に「白隠「軸中軸」を載せました。
















夏秋独り言 52 菓子拓と楽器拓

yamamoto   yamamotogita  
第11回ひょうほゑ展に出品された平音湖さんの拓
本はとってもユニークです。
菓子拓はビスケットなどのかたいお菓子を採拓しそのあと食べたそうです。魚拓のように直接墨を塗る
わけではないので大丈夫です。
ギターの拓本を採りたいと言ったとき、楽器が水分
で痛まないか心配したのですが、うまく採れました。
日ごろ石仏や歌碑の採拓が中心のベテランと違って、既成観念を打ち破って挑戦できる平さんにはこれからも思わぬものの拓本を採ってびっくりさせてほしいですね。(2013.1.1)






夏秋独り言 51 大山巌記念碑

 oomura oomurahi
oomurahisenn   oomurahisentaku 東京千代田区九段坂の中程、田安門の右手には靖国通りの歩道に面した小公園があります。千代田区の管轄だが正式な名前の無い公園とのこと。その一隅に建立されている軍人の銅像は、大山巌の晩年の姿を模したものです。
 大山は西郷隆盛の従弟で幼年期から西郷の影響を受け、青年期には薩摩藩の精忠組に加わった。薩摩藩の内紛劇であった寺田屋事件では危うく難を逃れたものの禁固三年の刑を申し渡された。英国東洋艦隊が鹿児島に来襲すると政治犯で編制された懲罰部隊に召集され、西瓜売りに変装して小舟に乗り、機を見て英艦に斬り込もうとする決死隊に加わるが果たせず、帰還して砲台の砲手となって戦った。この薩英戦争で火力の重要性を悟った大山は、高名な江川太郎左衛門の兵学塾に遊学、以後、日本の砲兵の第一人者として活躍することになる。
 戊辰戦争では薩摩二番大砲隊を率いて各地を転戦、会津若松で重傷を負っている。傷が完治するとフランスへ渡り、普仏戦争を観戦したのちスイスへ移り、フランス語修得を試みたが、志半ばにして明治六年の政変、いわゆる征韓論が起こり、鹿児島の私学校党との調停を命ぜられ帰国。大山は鹿児島に一ヶ月滞在し、西郷と直談判に及ぶが西郷を上京させることは出来なかった。西郷とどのような談判が行われたかについて、大山は誰にも語らず、今日もなお不明である。西南戦争では政府軍の指揮官として私学校党と戦い、郷里を敵にすることとなった。西南戦争以後、快活明朗だった大山は一転して寡黙な男になったという。
 内閣制度が発足すると大山は陸軍大臣をつとめ、また、参謀総長の職にもついているが、日清戦争では第二軍司令官、日露戦争では満州軍総司令官をつとめ、指揮官としての活躍が目立っている。
 日露戦争以後、橘中佐や広瀬中佐のように国家に貢献した軍人が神格化される風潮を嫌い、自分の死後は神格化しないよう遺言したが、国策により葬儀は国葬となり、墓石は宮内省陵墓官の設計によるものとなったが、かろうじて大山神社が創建されることだけは免れた。(2012.8.8)
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夏秋独り言 50 広開土王碑と中村不折と子規

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1214日研究のため書道博物館に参りました。2012115日まで「日本の古代碑」が展示中。でもやはりここでは「広開土王碑拓本」が素晴らしかった。広開土王碑は広開土王陵碑または好太王碑ともいわれ、現在の北朝鮮の北、中国吉林省にあり、紀元前から6世紀まで中国朝鮮をまたがる大国家の高句麗の19代(4世紀)の広太王を称えた碑で、16メートルもあり、1802文字の漢字が彫られています。この拓本が展示してあったのです。この拓本は最初日本で研究が進みましたが、韓国の研究者によって日本陸軍によって不都合な部分が改ざんされたという説が出ましたが、その後中国で発見された別の拓本から改ざんされていないという結論になった日本・韓国・中国を巻き込んだいわくつきの拓本です。
最初の拓本を研究された方が、父藪田嘉一郎の友人で、京都大学名誉教授であった梅原末治先生だったということも何かの縁です。
「・・・倭以来卯年来渡・・・」の「倭」は「後」で、石灰を塗って改ざんしたと言われましたが、実際は改ざんされていませんでした。それを認めて次は、倭が朝鮮に渡ってきたのでなく、朝鮮が倭に渡ったという主語の違い説が出ています。南北朝鮮は一致してこの説で、日本が古代朝鮮に来たことを認めたがりません。一つの拓本が古代歴史を塗り替える力を持っているんですね。吹き抜けの二階から下までのこの巨大な拓本が日韓・日朝の歴史の一部分を照らしていることに少し興奮しました。「・・・卯年・・・」は西暦391年今から1621年も前の卯年です。これも何かの縁ですね。
さてこの建物は洋画家で書家であった明治時代の中村不折の家を書道博物館に改築したものです。ここには世界に一品しかない拓本や古代中国の石碑が展示されています。
今まで何回か来ましたがいつもここで帰るところを、今回は初めて前の正岡子規の住んだ「子規庵」を訪れました(この二つの建物を観るなら最初に子規庵を訪れれば書道博物館の割引券貰えます)。
いまNHKで放映中の「坂の上の雲」は明治時代を生きた秋山真之、好古、正岡子規三人の物語です。現在第3部は日露戦争まっただ中ですが、去年の第2部では正岡子規が中心でした。その子規が暮らし死んだ家がこの子規庵、玄関から上がると、まるでドラマの中に入ったような、時間が止まった子規の世界を体験できました。ここで撮影したのかと聞かれるそうです。たまたま隣にいた方はNHK松山放送局の方だったのも縁ですね。ところでドラマの中で妹律が庭石に葉っぱを置き、紙を載せて別の石で叩いて模様を採る場面を観て、一種の拓本だとおもって記憶に残っています。
中村不折が子規に絵の具を送ったので、子規は絵を描いたそうです。それにしても香川照之の子規は絶品でしたね。(2012.1.1)

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夏秋独り言 49 
Brass Rubbing

naitotaku   naitotaku2  今から30年以上前、日本拓本研究会に入られた京都大学の英文学の教授から見せてもらった一枚の拓本、それまで中国起源で東洋でしか存在していないと思っていた拓本がイギリスにもあり、現在も採られていることを知って、衝撃を受けました。採拓方法は乾拓(Brass Rubbing)という、紙の表面から擦って取る方法で、紙は洋紙、墨でなくチョーク(クレヨン)ですが、等身大またはそれ以上のものまであり見事なものでした。ちなみにBrassは真鍮 Rubbingは擦るという意味です。
これ以降私の夢はイギリスで日本の墨と画仙紙を使う湿拓でこれらの像を採ることでした。

それから30年、日本の文化をイギリスに伝えるプロジェクトに参加し、拓本と屏風のワークショップをロンドンとチェルムスホールド、ケンブリッジで開き、多くの方に教える間、1日だけ休みをもらって採拓に出掛けました。渡航前にブラスラビング協会に手紙を出したのですが返事が来なくって、不安ながらの行動でした。
まず30年前見た騎士像の置かれているウェストミンスター寺院、4月29日ウイリアム王子の結婚式が行われたところです。開門前から行列、内部も人でいっぱい。入ったすぐのところに「Sir John Harpedon」の像を見つけました。1438年造られているので表面が相当摩耗していましたが触れることができました。そばにおられたお坊さんに拓本採らせてもらえないかと聞くと、20年前から採らしていないそうです。ではコピーでもいただきたいと言いますと、図書室を紹介してもらいました。
出口の近くの図書室は鍵が掛かっていて、インターホーンで要件を言って開けてもらいました。内部に入るとまたまた感激。
実は最も好きな映画「薔薇の名前」のような図書室だったのです。古本の持つ一種独特の匂い、書架には何百年もたっていると思われる本がギッシリ並んでいます。螺旋階段を上がって、司書の方に趣旨を述べると、大きな本からコピーしてくれました。コピー代はいらないとのこと、実は寺院に入るにはお金が要りますが、シニアは無料(パスポートで確認)なので二重にありがたいことでした。
ということで、採拓はできませんでしたが、実物に会え、14世紀の図書室に入れたことで満足いくものでした。ところでここで懺悔、実は私の英語は幼稚なので、この日はYumikoさんという方に案内通訳をお願いしたので、私だけでは門前払いだったでしょうね。ここに厚くお礼を言います。ありがとうございました。(2011.0720) 
 30年前の拓本  図書室のコピー






夏秋独り言 48 吉備真備母楊貴氏碑拓本

taku   takuusagi 奈良五条で享保13年(1729)出土した楊貴氏墓誌拓本。墓誌そのものは行方不明で、拓本のみが伝わっている貴重なものです。伝承では刻字には朱が入ってたらしい。
さて文面の「朝臣真備」は吉備真備のことで、遣唐使として唐に二度渡り、阿倍仲麻呂と再会し、また鑑真を連れ帰った学者であって政治家。聖武天皇や光明皇后にかわいがられ、右大臣まで上り詰めた人。これって大河ドラマになりそうです。
その亡妣というのは亡き母のことで、氏名は楊貴氏で天平11年記す。歳は己卯と彫られています。
さてこの楊貴氏が問題です。一説では唐の楊貴妃の名を当てたといわれてますが、楊貴妃がこの名称を与えられたのは日本の年号で天平17年なので墓誌年号と合いません。別の説は奈良のこのあたりにいた八木氏をもじってつけたという説もあります。ヤギシ=ヨキシ=ヨーキヒ(相当苦しい)。
 陰陽道の聖典『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り、安倍清明に伝えたとあり、ここでも玉兎は月に兎のことで、金のカラスの太陽と対で陰陽という意味です。ここにも兎が出てきますね。今年はウサギ年、筆者も老兎であります。
なお真備の墓は奈良教育大学構内にあります。そういえばこの大学構内には壮大な新薬師寺伽藍跡が出てきました。
一枚の拓本から歴史が伝わってきます。うれしいですね。(2010.12)






夏秋独り言 47 天上大風拓本 良寛

 ryoukan  ryoukantaku あまりにも有名な良寛の書、子供たちにねだられて、凧に書いた字です。
良寛は空海以来の書の達人と言われていますが、私には良寛の仮名は線が細すぎであまり好きではありませんが、というより何が書いてあるかわからない。それに比べて漢字はとっても大らかで、美しいと思います。
さて山梨県市川大門碑林公園に彫られた碑から採った「天上大風」の拓本、真筆と比較するとずいぶん違います。やはり石刻では滲みは出せませんね。また全体に字が太っていて、良寛らしさが半減です。
書を碑に写し取り、刻む技術によって変わるのか、書のすべてを刻むことはできないのか、またそれを採拓した時、どう変わるのか?
ろうや台の磨崖のように、石の表情が加われば、全く別な拓本が生まれます。
書と刻と石と拓・・・それぞれいっぱい表情を持っています。だから拓本は面白いですね。 (2010.7.21)






夏秋独り言 46 清水寺岩駒虎拓本

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京都清水寺境内にあるこの虎は 拓本ギャラリー
4(2000年9月)に紹介した、江戸時代後期丸山応挙や谷文兆と覇を競った岸駒の作です。虎を描かせれば当代一といわれました。石に彫られた虎の最高峰ではないでしょうか(145×110㎝)

しかし灯籠は苔むして何が彫られているのかわかりません。拓本に採って初めて岩駒の凄さが現れます。これが絵や写真と違う拓本の良さです。石から離れた瞬間に拓本は自己主張を始めます。
コピーでないアートとしての拓本の出現です。

今年は寅年、再度登場。灯籠の一種で、穴の部分には灯明をともしたのでしょうね。今年はいい方向に導いてほしいものです。
(2009.12.31)






夏秋独り言45  開通褒
斜道刻石拓本

magaihitaku「かいつうほうやどうこくせき」と読むこの拓本は、拓本をアートとみた時最高峰に位置するもので、中村不折は神品とよんでいます。
私もかって一度この拓本を見て虜になりました。
今回東京丸の内の出光美術館の「文字の力・書のチカラ」展で再会できました。(会期は1月10日から2月15日)
中国は永平6年(AD66)、陜西省漢中の道を開通したとき、太守鄐ちく君の功績を讃えて岸壁に彫られた記念磨崖碑です。
風化が激しく現在は切剥がされて漢中市博物館に保存されていますが、ボンドで留めてあるとのことで、採拓はできないと思われます。
この拓本は大阪市立美術館所蔵のもので大変貴重なものです。

この碑の内容は読みにくく、読めても「多くの人と月日とお金をかけて道を作った」という内容で、今日ではそれほど重要ではありません。
書はデザイン的で、雄渾ではありますが、紙にかかれている状態ではそれほど心を打たれないでしょう。
この碑の最大の芸術性は、文字と石の模様が、拓すという技術で写し取った拓本にあります。
多分この拓本が採られたのは石に文字が刻まれてから、ゆうに1000年は立っていると思いますから、石に当たる雨風が新たな造形を生み、この拓本により一層の美術性を与えています。(127.2×256.5㎝)

なお本展には中国唐代楷書の名品「雁塔聖教序拓本」も展示してあります。西安の大雁塔にある碑で648年玄奘(三蔵法師)がインドから仏典をもちかえった記念に太宗の選文を褚遂良が書いたものです。
この拓を書家種谷扇舟が臨書、すなわち写し取った書を一隻の屏風に仕立てて展示。
書道は古代の書、それも拓本でしか残っていない書を、臨書することによって技術を磨きます。日本画も洋画もやはり模写をすることで技術を習得していくわけですから同じことです。拓本は今日の書道を築いてきた最重要なファクターといって過言ではありません。
種谷扇舟は臨書の最後に「雁塔聖教序の魅力にとりつかれ原拓を臨書したが又々惨敗 偉大なる彼とみじめな吾」と記しています。(2009.2.10)





夏秋独り言44 絵になる拓本

takua-to 11月22日・23日・24日と京都みやこメッセの日図デザイン博物館で開催された「絵になる拓本展」は、伝統的な拓本と、アートな拓本の二本立てで募集されました。
今回は私藪田夏秋は招待作品として、三点出品しました。その中の一点は「和傘」として「採拓記3」に掲載しました。

左の「千客万来」は招き猫を採拓しコラージュした斬新な拓本で、賞を獲得しました。出品者の坂田厚代さんは、わたしの指導する奈良の表装教室のお弟子さんです。
takua-to この展覧会はアート系専門校の協賛を得て、その生徒さん達の若い発想から生まれたアートフルな作品が毎回出品されますが、今回とっても良かった作品を一つ掲載しました。

携帯電話は今や若い人たちにとってはなくてはならないアイテム、次から次へと機種が進化して、ついこの前のものがいまや使わなくなります。その様子をうまく採拓し、デザインした本作品は、現代を的確に表現した素晴らしい作品です。拓本が過去を映し出すことから、現代を表現する媒体としても機能することがわかって、大変うれしく思っています。(2009.1.1)